りんご

昨日の話です。

道に笑顔で両手を差し出している人がいると思ったら、いつのまにか握手をしていました。
よろしくお願いしますねと話すその人の掌はものすごく分厚くて、もちもちしていて、すごい迫力。掌も商売道具のうちかとひとりごちながらそのまま投票所へ行き、期日前投票を終えました。

人生で初めて投票しました。

選挙権を手にした年はなんで選挙に行かなかったのかさえ覚えていません。二十歳になって与えられたものは、入学式に渡される分厚い冊子や書類のように重要性とめんどくささが同居していて捨てることもできずに頭の隅に積み上げていたのだと思います。
そんな私が初めて選挙を意識したのは海外にいたときでした。気持ちの新鮮度には勝てないので、以下、そのときに書いた文章を載せます。

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「お母さん、なんで日本はこんな風になっちゃったの?」って聞かれたら、なんて答えよう
…ってこの前カレーかき混ぜててふと思いました。ちょっとお玉持つ手止まりました。
子供どころかその前段階も空白状態で、この妄想力。
いやでも、そこで何も言えない親にはなりたくないって強く思ったことは本当です。

日本は平和で安全だと、色々な国から来ている人の話を聞いてしみじみ感じています。でも、私はそんな日本であまりにも鈍感になりすぎました。道路を渡りたきゃ青信号を待ってればいいし、街歩いてても差別を受けないし、授業では自由に考えて手を挙げていい。私はそんな「普通」の環境の中でとびきりのんびり過ごしていたら、いつのまにか自分の身を自分で守る力もないまま大人になってしまいました。

話はちょっと変わります。
メルボルンには、誰にでも無料でご飯を提供している非営利団体のレストランがあります。
名前はLentil As Anything、コピーは”pay as you feel”。自分の払いたい分だけお金を払うというシステムです。以前から興味があって、ボランティアとしても少し参加しました。
そのレストランで先日、ボランティアのシェフとして2年間で6000時間働いたスリランカの方が突然移民局に留置され、別れの挨拶もままならないまま祖国へ送還されることになったことを、Facebookの投稿で知りました。
私の知らないところで、いや、知ろうともしなかったところで、世界中似たようなことはきっとたくさん起こっています。でも、この一件がどうしようもなく私にとって衝撃的でした。身近なところで、政府の力で、こんな悲しいことが起こってしまうものなのか、なんとかする方法はないのか、と。

その時、「国の将来」とか「世界の中の日本」とか、大きくぼんやりとしか見えてなかったものに、焦点が合った気がしました。身近な人や自分を守るため、一緒に幸せに暮らしていくために、選挙に行くんだ、と。そう考えはじめると、大切なものを守るための知識を何も持っていない自分に焦りを覚えました。いつも誰かが守ってくれて、ちょっと嫌なことがあったら「国はどうしようもないなー」って言ってればいい、でもなんだかんだで今の平和で安全な状態が続いていくんだろうなー…なんていうデイドリームからやっと目覚めたんです。おはよう!どうしよう!

ここまで長文を書きながら、私は今回の選挙に参加できません。こちらからでも投票する方法はあったのですが、提出する書類を調べたら色々と間に合わず断念しました。
でも、だからこそこの気持ちを書こうと思いました。
もっとちゃんと考えろって叱られるかもしれないけど、私は自分と周りの人の幸せのために投票を決めていいと思います。わかんなかったら、わかるとこだけでいいと思います。

いつか子どもに聞かれたら「お母さんは考えられる限りの最善のことをしたよ」って私は言いたいです。

そして願わくば、これからもずっと、誰かとおいしくカレーを食べられる国であってほしいなぁ。

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このときよりも子供に対する気持ちは強くなり、友達に引かれています。私自身もちょっと引いてます。ただ、私は自分のためにあまり頑張ろうと思えない人間なので、将来の子供のためにと思って今回満を持して投票しました。私の都合で産むんだから少しでもよりよい社会に出ていけるよう努力するのも親の勤めなのではないかと、最近は考えているからです。

投票の帰り、夕飯は駅の立ち食いそば屋に寄って山菜そばを食べました。お客さんは私一人で、店のおばちゃんと選挙について世間話をしました。おばちゃんは「だって当日何があるかわからないじゃない」という理由でいつも期日前投票をするそうで、今回の台風のことを例に出してひととおりしゃべったあと、机にもたれ掛かりながら「当たり前でいいのよ、当たり前のことがずっと続けばいいわ」とつぶやきました。
私が食べ終わったところで、知り合いからりんごもらったらから持っていって!と奥からりんごを出してきてくれて、ありがとうございますと喜んでいたら、もう1つくれました。
昨日より今日、今日より明日、自分や隣の人が少しでも多く笑えればいい、そういうささやかな願いの大切さを2個のりんごの体重を感じながら考えていました。

願い

初詣。白い息を吐きながら、脳の真ん中になんの飾り気もない願いをポツンと置く、あの時間が好きだ。

こうあってほしい、こうありたいという願いそれ自体は細くゆらゆらと揺れる炎のよう。誰かにふっと吹かれたり、足で踏まれたりしたらすぐに消えてしまいそうな、弱々しい灯。

だから多くの人の賛成を得ようとしたり、お金を儲けたりしようとするときには役に立たない。願いを、もっと強くて正しくて華やかなものに変えなければいけない。行動で示して、結果を出さなければいけない。

それは必要なことだと思う。私もそうやって、より多くの人の心に届くものを作りたい。世界への願いを成就させたい。

でもよく忘れそうになる。今目の前にある、ガラス張りの大きなビルも強い言葉が飛び交う議論も商品のなれの果てのようなテレビ番組も、そもそもは誰かの願いから生まれたということを。

素朴で純粋な願いを思い出したくて、人は旅行をしたり、詩を作ったり、散歩をしたりするのかもしれない。初詣のあの時間を、別の形で日常に取り込むのかもしれない。

今日ふいに私にそのことを気づかせてくれたのがこの動画だった。

心のなかの炎を、消されても消されてもまた灯そうとする営みは尊い

大袈裟かな。でも本当にそう思った。

いい曲です。

 


モーニング娘。'16 / Be Alive

 

 

 

気づき

今日、気づいたことがある。

まずその話の前に、私は服がダサいことを伝えなければいけない。

人に堂々と言うことでもないが私の気づきをわかってもらうには必要なステップである。

物心ついたときからダサかった。小学生の頃は、良品安価(これわかる人いるかな…)のページを見て「長く着れそうなやつ」という基準で選んでいたことを覚えている。高価なものが苦手だったうえに特にこだわりがなかった。このダサさは家計への配慮が生んだもんなんだなと思っていた。

しかし先日なにげなく幼少期のアルバムを見ていたら、2歳で蛍光ピンクのズボンに鮮やかな緑のトレーナーを着ている自分を見つけた。なんと、物心がつく前からダサかった。

姉にそのことを伝えると、「あのね、うちら出自がダサいのよ。」とため息交じりに言った。

出自が…ダサい…

思い返せば母はチューリップのイラストの上に「TURIP」と大きくプリントされた靴下を愛用していたし、父は不可解な色の長袖ポロシャツをハーフパンツにイン(もちろん今流行りの前だけインではない、360度インだ)し、不可解な長さの靴下をはくのが定番のスタイルだった。

これが…出自か…

逆らえない大きな運命を感じ、そのときから己のダサさに反抗することをあきらめた。

 

話は変わって、私は言葉が気になる。

もし彼氏が浮気性でも、気が使えなくても、顔がかっこよくなくてもアウトではない。しかし句読点の位置が気持ち悪いとちょっと考えてしまう。いや、いいんだけど。いいんだけど、

「おはよう。今日は、いい天気だね。今週末の、デート、家で映画もいいけど、予定変更でやまのぼりとか、どうかな?紅葉とかまだ速いと、思ってたけど、ゆーて以外と見頃かもよ。後、昨日パーカー忘れてったよ^^」

とか送られてきたら一旦そっと携帯を置いてしまう。あと誤字。「速い」て「以外」て。あと変換。「やまのぼり」て「後」て。ついでにつっかかると「ゆーて」と「^^」もなに!?

と言うほど私も言葉が全然うまくないし、さすがにうざいので特に誰に言うこともないのだが、気になる。少なくともこの人は言葉に重きを置いてないのだな、と思うと埋められない溝を感じる。てか字を間違わないとかはもう身だしなみレベルのもんじゃないかねぇと考えていた、というところで本題に戻る。

このとき私は気づいた。

もしかして服と言葉って似たようなもんなんじゃ…?

どちらも個人の趣味嗜好に関わらず、使わなければ生活できない。だから特にこだわりもなく道具として捉えている人もいれば、自分のアイデンティティの一部として捉えている人もいる。

そう考えると私のダサいファッションは言葉に置き換えると上記のメールと大差ないのではないか。

うわぁあああああぁあ…

同時にこれまでの数々のダサファッションがよみがえってくる。いやでも私だって身だしなみくらいは!と思い直すも、クローゼットから顔をのぞかせる毛玉だらけのニットと目が合う。

多分、句読点はベルトやアクセサリー。誤字と誤変換は毛玉やしわ。浮ついた言葉はペラペラの安い服。

今まで私の服に小言を言う人の気持ちがやっとわかった。こだわりのある人から見たらものすごく気になるのだ。「ファッションはコミュニケーション」と誰かが言っていたが、今深く納得する。本当に服は言葉、言葉は服だった。

そう考え始めると、次々と類似点が見つかっておもしろい。服と同様、私の語彙は親の影響を大きく受けている。特に高校生くらいまでは親以上の語彙は広がらなかったし、口癖もそのままうつっていた。言葉への姿勢も父親と似ているなと思う(まぁ私がただ感化されやすいというだけかもしれないが)。

また以前、服好きな友達がさらりと言った「服って他人と自分の境目じゃん」という言葉を思い出す。言葉もまさに境目のようだ。重ねれば重ねるほど、相手と自分の間に薄い膜みたいなものを感じる。壁というほどではない薄さ、触れているようで触れていない感触。だから言葉を失ったまま好きな人の肌に触れるとき、人は幸せを感じるのだろうか、なんて思ってみたりもする。私はその幸福感がよくわからないので、またひとつ新しい気持ちに近づけたようでなんだかうれしい。

 

 

というわけで服と言葉。まだまだ思考を深められそうな今日の気づきでした。

えっと、でもまずは毛玉取ろうかな。

もしも

鏡はきらい。

自分の顔からできるだけ意識を離していたい。

私は小さい頃から美しくなくて、

まぁ一言で言えばブス。

小学校2年生のとき隣の席のゆうとくんが言った

男の子は笑った、女の子は怒った

その言葉、ブス。

そのときにはじめて自分がブスだって知った。

顔が急に熱くなった。

それから私は頑張った。

慎重に、慎重に、生きた。

 

好きな色はピンクだけど言わない。

ピンクを好きって言っていいのは私じゃない。

集合写真はなるべく人の後ろに隠れる。

だから「もっとこっち向いて」なんて言わないで。

コイバナはなにも言わないで微笑む。

好きな人はいるけど誰にも言ったことない。

 

部屋は私だけのお城。

ハート型のポーチにきらきらのランプシェード

かすみ草のドライフラワーに友達からもらった手紙。

別に何も恨んでない。ちょっと残念だっただけ。

ご飯はおいしいし友達はやさしいし毎日それなりに楽しい。

 

それでも寝る前、少しだけ夢を見ることがある。

もしも私がかわいかったら。

エストがきゅって細くなったワンピースを着るの。

ターンをしたら裾がふわって浮かんでポニーテールも揺れる。

どこにでも行けそうな長い脚、それと耳の後ろに少しだけコロン。

黒目も唇も指先もうるうるしちゃって、すれ違った男の人がどきってする。

でも私はそんなのには目もくれずに走っていくの。

誰にも言えなかった気持ちを

あなたに聞いてもらえたら、それだけで、私。

19

雨。買ったばかりのスニーカーが濡れてテンション下がる。傘の柄を肩にかけてしゃがみ、爪先の泥を指ではじく。あー、まだかなバス。100m先に見える曲がり角を睨んでみても思い出したようにぽつぽつと車が現れるだけでバスらしき音さえしない。
スマホに視線を戻し、どうでもいいネットニュースを指ではじく。泥を取るときと同じ動きだと気づいて「ハッ」と乾いた音が鼻から出た。昔有名だった俳優が不倫したとかで最近のエンタメニュースは賑わっていて、一般人のTwitterが「世間の声」として掲載されていた。「悪いことをしたら償うのが筋だ」とか「他人のものに手出すんじゃない」と批判する声のなかに時折「誰にだって間違いはある」と擁護する声もあって、でも何にも心は動かなかった。ここまでたくさんの人があーだこーだ言ってても、誰も結婚制度に対して疑問を抱いていないことだけがただ不思議だった。すごいんだな結婚って、とぼんやり思いながら画面を切り替える。ライン未読59件。右へ指を動かして見たくないものを消す。「久しぶり😃✨田中です。元気かな❓すっかり秋ですね🍁風邪を引かないように気を付け…」「カフェアトランティック10月の新メニュー!クーポンはライン友達にのみ…」「うん。そう考えたほうがいいよね!話聞いてくれてありがとう😭元気でたよ!また今度…」「こんばんは」「10/20放課後練と飲みについて出席とってるのでノートにてコメントよろしくお…」。テキストで他人とやりとりをするのは苦手だ。ちまちまとした言葉と絵文字の羅列に明るさをうわのせして文章を組み立てるのがめんどくさい。いやまず気持ちを特定の誰かに伝えることがめんどくさい。そんな関わりは濃すぎて喉がつまる。そのとき脚が突然濡れてはっと顔を上げた。薄いクリーム色の軽が目の前を通りすぎていくところだった。お姉さん、徐行お願いしますよまじで。少しいらいらしてTwitterを開く。「雨で車に水かけられたうえにバス来ない😭今日は運悪いな~😭」と素早く打ち送信ボタンを押しそうになったところでとどまる。待て、今ツイートしたらライン無視してるのバレるか。息を出さずにため息をつきながら×マークを押してスマホの電源も切る。
さっきの人は急いでいたんだろう。私も急いでいるときは周りが見えなくなる。そういうことは誰にでもある、と考えていたら落ち着いてきたけど同時にどろっとした液体が胸から溢れるような感覚に襲われた。こんな言い方、お母さんと一緒じゃん。昨晩電話で言い争った母を思い出す。小さい頃から「みんな頑張ってるんだから誰も悪くないよ」と母は口癖のように言う。それが最近急に嫌になって、昨日は子供のように難癖をつけて電話を一方的に切った。後悔と情けなさをじわじわと感じるものの嫌な気持ちは消えない。まず頑張るってなんだ。私たちには頑張ると頑張らないの二つしかないのか。頑張るってそんなに偉いのか。頑張ってれば悪くないってどういうことなんだ。いや本当はわかる。私もバイトを始めて世の中の仕組みに触れて今まで他人としか思ってなかった店員にも共感するようになった。苦労する度その共感は大きくなって町のあちこちで自分の姿を重ねることも多くなった。みんなそれぞれに頑張ってるという気持ちもわかる。わかるけど。
自分が雨で冷たくなった手をきつく結んでいることに気づいた。私は多分怖いんだ。みんな頑張ってるとか誰も悪くないってぬるい笑顔浮かべてるうちに人生終わりそうで怖い。人生が画素数荒いムービーみたいに終わりそうで怖い。すべての人を肯定しているようなことを言いながら何にも怒らず微笑み続けているのは、人生に対する倦怠と諦めとしか思えなかった。
ブゥンという音ともに視界に影が差す。見ると待っていたバスが停まっていた。慌てて傘を閉じて水気を払い段差をのぼる。窓から見える景色はもやがかかったように白かった。

待ち合わせ

昨日見た/夢はエクレア/夏は嫌い
手は温かいです/ここにいます


待ち合わせがうまくできない。
人と約束をすること、しかるべき時間にしかるべき場所に行くこと、待たせたときの焦りなど苦手な点は数えきれない。そのなかでも特に苦手なのが待っているときの顔と相手を見つけたときの反応だ。
一度、超ド定番の待ち合わせスポットで周囲の人々を観察していたことがある。特に誰とも約束していないのにただ立っていた(私はこのように苦手を克服しようとして方向性を間違うことがよくある)。
彼らはスマホをいじっていたり、時計をチラチラ見たり、電話をかけたりしていた。みんなすごく上手になんてことない顔をしていた。もしもテレビの取材に「今何をされてるんですか?」と聞かれて「人を待ってるんですよ」と答えたとしてもお茶の間の誰もが納得するだろう。完璧な待ち顔だ。
対して私はおどおどしている。スマホをいじっていればよいのだが下を向いた状態で突然「よっ待った?」なんて声をかけられたらめちゃくちゃびっくりしてしまう。私は驚き屋なのだ(なんだろうそれ)。
なのでできれば周囲を見回していたいのだがそれもどきどきする。私はいまだに相手を見つけたときの反応の正解がわからない。心の赴くままに反応すればいいのはわかっているのだが、「私たちは待ち合わせをしている」という事実の圧力に負けぎくしゃくしてしまう。結局いつも必要以上にテンションが高くなってしまったり、反対にものすごく素っ気なくなったりする。社交に問題がありすぎる。
そうこう考えているうちに周りの人は次々と誰かと出会い、消えていく。あの人たちはどこへ行くんだろう。誰もが笑顔で足取りは軽い。しかし待ち合わせとは本来そういうものなのだ。こんなにたくさんの人がいるなかで自分を見つけてくれる誰かがいる。それは確かに喜ばしいことだなぁと、思わず私も微笑む。
あれ、でも私はここで何をしていたんだっけ。

きつい

失った2016年を取り戻すかのように同居人が去年話題になったDVDを大量に借りてくる。

相変わらず私以外の人の得になるような感想が書けないので題名はふせるが、今夜もそのなかのミュージカル映画を観た。

以下、視聴中の脳内をただ文字におこしたものである。

 

・原色鮮やかでかわいいなー

・テンポの良さよ

・あ、意外と笑える感じなのね

・お~実際に弾いてる。プロから見たらどんな感じなんだろうか

グルテンフリーな!笑(以前オーストラリアで働いてたときよくあった)

天文台にあったバーをミアが下げる前にセブが白い布で拭いてあげてたのはどういう演出だったんだろう

・他人から見たらあほみたいなこの風景がなーほんとに見えるんだよなー恋ってなー。あほっぽさまで再現してるのだろうかねぇ。

・わ、セブが大人になってる…

・このつくづく二人にしか(物理的にも)スポットライト当てないのシンプルでよいな

・あーすれ違い、、カメラマンの指示内容が生々しい

・"I'm gonna go home for a while."  "...This is home."   "Not anymore."

homeと呼ばれるもの(家、故郷、拠り所、いるべき場所)って変わるもんだよなぁ

・全編を通して夜が明るいのがおもしろい、わざとなんだろうけどなんでかな

・うわ待てきっつ、そうきたかー。パラキス思い出すな。

・もう脇道ですいすいいけるもんね…上手に生きていけるようになったもんね…

・このロゴマーク完璧に再現してるの、深読みしすぎだけどちょっと胸にくるな

・あ、きつい

・あーきつい

・きついきついきつい

・あ~~~~

 

以上。

最後、きついしか言ってないけど本当にそれしか気持ちがなかった。画面が輝けば輝くほどきつかった。

超個人的な意見だけど、最後のシーンに胸が苦しくなった人ってもはやスクリーン観てないんじゃないか。同時にフラッシュバックした自分の半生で視界ふさがれてないか。そうであってくれ。私はそうだ。

道を選ぶ、そして道の先にあるものを得るということは、もうひとつの道の先にあったものを得ることはできないということであって。

そんなこといくら言ってもしょうがない。選んだ道で生きていくしかない。それでも。「あったかもしれない」という一瞬の夢は、苦い薬そして甘い毒として今も自分を生かす。

劇中でミアがぼそっと言った”Not anymore”ってセリフが観終わってからじくじくと痛かった。きっとこれからもっとこの映画の伝えたかったことを実感することがあるんだろうな。10年後にまた観たい、今感じた気持ちとどう変わるかが気になる作品だった。

 

 

ま、あれです。ラ・ラ・ランドを観たんです。