関係には名前をつけなければいけないような気になるけど、本当はそんな必要はない。視線や沈黙を思い出す秋、木曜日、朝。わかりづらいことはわかりづらいままにしておくことにした。私たちは明日のプレゼンで発表されるわけでも、今週末の結婚式のスピーチで読み上げられるわけでもない。それくらいは許されるはず、と化粧水を肌にしみこませる。でも誰に?と鏡を覗きこむ。昼休み、階段ですれ違ったとき会釈しかしなかったけど、触れたあなたの冷たい手に胸が詰まった。こっそりトイレで塗った透明のマニキュアが光る指先、繋いでみた帰り道、ついに私の体温は伝わらなかった。でもその寂しさを誰にも話すことはないし、もちろんあなたにもない。スーパーで買ったお総菜に長めに手を合わせたりしていつもの私を取り戻す、そんなことだってもうできる。

スポーツ

昨日見た夢の話など興味ない退屈さ~
と歌われる、昨日みた夢の話をする。

なぜか私は海外にいて、友達はテイラー・スウィフトだった。夢らしいはじまりである。
彼女の自宅に呼ばれたがなんだか浮かない顔のテイラー。どうしたの?と聞くと「こんなゲーム、つまらないわ」と言いながら、階段の三段目に座り足元から真っ直ぐにのびるゴルフのパターマットを指差す。しかしそれは緑の人工芝ではなく高そうな薄灰色のファーが植え付けられており、しかも穴は始点と終点に二つあった。テイラーは物憂げに階段の三段目からゴルフボールを爪で弾く。ボールはトントンと音をたてながら階段を下り、始点の穴へすいこまれたかと思ったらファーの下にある通路を通り、終点の穴へ到着した。
これはまずゴルフではないし、確かにつまらないなと思った。彼女は「こんなことばっかりよ、最近」とつぶやいた。私はなんとも言えず、スマホTwitterを開いた。すると後輩(昨日一緒にはぜかけをした後輩である)が「もうこのサークルは終わりだ」などと自分の所属するサッカーサークルについて鬱々としたツイートをしている。その瞬間私はなぜか体育館にいた。どうやら彼の昨日の出来事を振り返っているらしい。そこにはテイラーの家にあったようなパターマット(ただしこれは普通の人工芝)が階段下に置かれてあり、部員たちが階段の三段目からボールを転がしている。ここはサッカーサークルのはずだがまぁ夢だ。テイラーのように始点から終点の穴までボールが転がるだけの部員もいれば、階段を下る時点でボールがどこかへ飛び始点の穴にさえたどり着かない部員もいる。
一方は「穴にボールが入るだけのことにどうして意味があると思っていたんだろう」とうつろな目で語り、また一方は「スタート地点に立つことすらできないなんて絶望だ」と床に膝をついて語った。
こうして全員が士気を失い、サークルは崩壊状態になったというわけらしい。
私は状況に戸惑いつつも後輩が心配になり、「大丈夫?」とラインを送ろうとした。そこで目が覚めた。いや、正確には夢と現実が混同し寝ぼけてラインを打っていたところで意識が戻った。


誰でも立つことができるスタート、努力と技術を積み重ねるからこそ入るゴール、そしてその間にあるルール。
ボールが穴に入るというなんてことない物理的運動に意味をもたらしたものを考えるとともに、後輩に送信しなくてよかったと心底思った。

はぜかけ

今日は、はぜかけをした。

はぜかけとは稲木に稲を干していく作業のこと。

稲木(いなぎ、いなき、いのき)とは、イネなどの穀物や野菜を刈り取った後に束ねて天日に干せるよう、木材や竹などで柱を作り、横木を何本か掛けて作ったもの。*1

 後輩に急に誘われて二つ返事で行くことにした。

運転する彼は「僕、毎年お手伝いしてるんですけど」と話しながらくねくね曲がった山道を進んでいく。私はあいづちを打ちながら久しぶりにこんな遠くまで来たなと思った。私の最近の外出先はごみ収集所と近所のコンビニのみだった。「昨日体育の日だったのに何も運動しなかったから今日はたくさん動こうと思います」と話す後輩に、そんな律儀に祝日の趣旨に沿おうとする国民がいるんだと小さく驚きながら来る途中で買った透明の紅茶を飲んだ。本当に紅茶の味がしてまた驚いた。

目的地に着くと二人の男性が笑顔で迎えてくれた。田んぼの持ち主とその友人だと言う。二人とも焼けていて笑顔だった。

はぜかけのやり方は思ったよりもシンプルだった。シンプルだったけど意外に難しかった。稲の束を分けて棒にかけていくのだが、適当にやると棒が回って落ちる。「うーん」と立ち尽くす私たちに、近くを通りがかった軽トラからおじいさんが降りてきてコツを教えてくれた。「隣の田んぼ、おれの親戚のだからさちょっとほどいてやり方教えるよ」と従来よりも安定するうえにコンパクトに収まる超画期的な方法を伝授して、サッと軽トラで去って行った。圧倒的年の劫だった。

お昼は持ち主さんの家でシカ肉の入ったカレーを食べた。食事中の話題は「イノシシ用の罠はどこにかけるか」だった。奥さんはまだ1歳にも満たない赤ちゃんを寝かしつけながら会話に参加していた。赤ちゃんは触れたら壊れてしまいそうなほどふわふわしていて、体全体を小さく上下させながら寝ていた。私はなぜかちょっと涙が出そうになった。

午後も時折休みながらはぜかけの続きをした。少しずつコツを掴んできたので、午前より進行が早い。もくもくと作業をしながら、江戸時代やそのずっと前の農家の人たちもこうやってはぜかけをしたのかなと考えていた。当たり前のように親の稼業を継いで農作業をしていた子どもたちと話をしたい、はぜかけのときに何を考えていたか聞いてみたいと思った。休憩中は遠くに走る軽トラを目で追いながら奥さんが持ってきてくれた差し入れの梨を食べた。いつも一人で抱えているこんがらがった考えは少しも浮かばなくて、ただひたすら渇いた喉に梨をすいすいと運びながら私は、なんて過不足がないんだろうと思った。

作業は早い夕方に終わった。刈り取った田んぼは、絶景に見えた。近所の温泉の回数券をもらって、「お米できたら送るね」と笑顔で見送られた。

ここ一か月分くらいの運動を終えた私は心地よい疲労感を感じながら助手席でぼんやりと夕焼け空を見ていた。なんかいろんなことを忘れた日だった。それがいいのか悪いのかはわからなかったけど、体を動かすのはいいもんだった。後輩もほくほくした笑顔で「じゃ、これからサッカーしてきます」と言った。それはさすがにできないなと思った。

苦手と言いつつ2日連続で固有名詞に触れるけど、『アズミ・ハルコは行方不明』を読んだ。まったく感想に見えない私なりの感想を書きたいと思う(はじめに断るがめちゃくちゃ話が逸れる)。

アズミ・ハルコは行方不明

アズミ・ハルコは行方不明

 

 私はなぜか五十音の最後あたりの音から始まる作家が好きみたいで、いつも通り図書館でヤ行漁りをしているときに偶然本作を見つけた。

『かわいい結婚』しか読んだことのなかった山内マリコ。装丁かわいいと思って何の気なしに手にとってみたらこれがよかった。

昨日のシン・ゴジラをはじめ、絶対面白いはずのものにあんまりピンと来ない日々が続くので自分の感性死んだのかと思ってたのだけど、アズミ・ハルコで息を吹き返した。よかったよかった。

以下、あらすじはamazonに書いてあったものを拝借。

「大丈夫、私が見つけるから。」
地元で再会した3人組が、遊びではじめた人探し。
彼女はどうして消えちゃった?

「悲しいとき思い浮かべるのは、いつも女の子の顔だった。」

夜になると、男性を無差別に襲う謎の女子高生集団“少女ギャング団"が現れる街のこと。
成人式に参加した20歳の愛菜(あいな)は、名古屋の国立大に進学した中学の同級生ユキオと再会する。ほどなくして大学を中退し地元に戻ってきたユキオと、愛菜は暇に任せてなんとなく遊んだり、セックスしたり。2人はふらりと立ち寄ったCDショップで、中学で登校拒否になった学(まなぶ)を発見する。
ユキオと学は映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』を見て、田舎の街をグラフィティアートで自由に彩るアーティストの姿に大感動。映画に出てくる覆面アーティスト・バンクシーに憧れ、自分たちもグラフィティを始める。
ある日、ユキオが持ってきたのは、街から消えた28歳・安曇春子(あずみはるこ)の行方を探す張り紙だった。安曇春子の顔とMISSINGの文字をグラフィティアートにし、2人は街じゅうに拡散していく。その頃ネットでは、少女ギャング団の起こす事件と、アズミ・ハルコのグラフィティアートの関連が噂され始めて――。

アズミ・ハルコはどうして消えたのか?
彼女を傷つけたのは何?
女の子がこれから幸せに生きていくには、どんな道がある?

『ここは退屈迎えに来て』で大注目を集める新鋭による、
ポップでミステリアスな無敵のガールズ小説! 
執筆に1年をかけた書き下ろし、初めての長編。

とのこと。

ここのところ作者の脳内会議に参加しているような気分になる小説ばかりを読んでいたので(それもまたいいのだけれども)、この作品ではページをめくる純粋な楽しさみたいなものを久しぶりに感じられてうれしかった。同時に、登場人物の人間関係が生臭くてどうしようもなくて、溢れる既視感の苦しさに何度かページを閉じることもあった。

地元に対する倦怠感、どうでもいい毎日と食卓、繰り返す勘違いみたいな恋心、情けない過去と欲。作品内では様々な要素が点在するが、大きなテーマは「女の子の生き方」だ。

読んでいるうちに女としての自分のこれまでを振り返って苦い気持ちになった。

女は痛いことばっかりだ。

こんなこと他人様に話すことではないのだけど、私はものすごく生理痛が重くて、中学生の頃は生理が来るたび遅刻や早退をしなければならないほどだった。人一倍痛みに弱い私は、早退する帰り道に電柱にもたれかかりながら誰にもぶつけられない恨みを募らせていた。そして大人になってまた別の痛みがこれからも要所要所で訪れることを知り絶望した。

どうせ痛い。女は逃れられない。それなら利用しよう。

という考えに至ったのが大学に入った頃。女として価値があるのは若い今だけなんだから売れる時に売っとこう、という思慮の浅いしかし切実な気持ちで大学生活を過ごした。まず女の価値の中で最もわかりやすく強力なのはやはりかわいさ、そう思った私は「かわいいとは何か」を考え続けた。若いだけで多分かわいい。だけどそれだけじゃ足りない。赤ちゃんはもちろんだが、お年寄りもしばしば「かわいい」と言われることに気づいたとき、かわいさとは「私が(俺が)支えなきゃ!」と思わせる生命力の弱さでもあるなと思った(失礼すぎるし安直すぎて指が震える)。

そうして「女の価値(かわいさ)=若い+弱い」の図式が出来上がった。男の前で若く弱いふりをすることで女としての利益を得た実感はあったが、同時に将来に対する恐怖が増長していった。歳をとったときの自分の価値を削ることで、今の「若い女の子」としての自分の価値を保証していたのだから当然とも言える。

そういう日々に疲れていた私を、アズミ・ハルコは爽快に救ってくれた。

女特有の痛みに対する復讐とか、男に対しての媚び売りとか、世間への愛想笑いじゃなく、ただ自分のためにかわいくありたいし女の子でいたい。

それは弱さなんかじゃない。強さだ。

逃れたくても逃れたくても自分はどうしようもなく女。いつだってここじゃないどこかに行きたいし、寂しい夜は泣きたくなるし、昔の男を思い出しては自分のことが嫌になる。

でもさ、大丈夫そんなん。クソみたいな現実は蹴り飛ばして、行方不明の君は他でもない君が見つけられる。その強さはもうあるじゃん、とこの作品は言ってくれている気がした。

戸棚

今更だけど、シン・ゴジラを観た。私は具体的な物事について公で考えを述べるのが本当に苦手なんだけど、このことについてはなんとなく書こうかなと思う。
友達数人と集まって観賞会をした。観終わったあと、友達たちが「はぁ~(おもしろかったね)」という満足のため息をつくなか私は何も言わなかった。
言えなかった。
正直、おもしろいかおもしろくないかもわからなかった。ここまで各地で大絶賛されている作品に、そして私の周囲も躊躇いなくおもしろいと言い切る作品に、ピンときてないなんて恥ずかしくて黙っていた。
今日書くことは何を的はずれなと笑われるかもしれないし、つまらないやつって距離を置かれるかもしれないし、とにかくシン・ゴジラをおもしろいと思った人にとってプラスになることはまったくないかもしれない。
それでも、あの作品は「わかってる」人と「わかってない」人を単純に二分するようなものではないと思うから。そして作品に対して感じた気持ちに優劣をつけるべきではないと思うから。ちょっと感じたことを書いてみます。


観賞後、友達が「震災のことを表現しているね」とか「最後の尻尾の意味は」とか「すごい皮肉だね」とか話し合っている声を遠くに聞きながら、全身全霊で何かを守ろうとしたことがない、ぼんやりしていて勘の悪い人はどんなに素晴らしいものを目の前にしても価値を感じられないんだなと虚しくなった。まず私は、「国」「地位」「努力」の輪郭を捉えようとしても焦点があったことがない。だから誰かにすごく怒られそうだけど、政府が必死に国を守ろうとしている様子を見ても何が彼らにそこまでさせているのかがわからなくてぼーっとしてしまった。
ただ私の脳裏に唯一残っていたのは最初に街が破壊されていくシーンで、本当に的はずれなようだけど、それはいつか観たテレビ番組のワンシーンとふいに重なった。
その番組は孤独死について特集していた。VTRでは死後数か月経った現場で人型の黒いしみがついた布団や大量の虫が生々しく映し出されていて、今思い出しても胸が詰まる映像ばかりだった。でもそのとき何よりも衝撃的だったのは、セルフネグレクト状態だったという故人の家の考えられないほど荒れている戸棚だった。うまく言えないけど、布団や鏡のように主張はせずとも生活の真ん中に必ず置いてある「戸棚」の崩壊は生活そのものの崩壊のように感じられたのだ。「戸棚に食器が並んでいて、皿が重ねられているのは奇跡に近い当たり前なのか」とただ呆然と思った。


ゴジラは震災のオマージュだと言われていて、おそらくそれが正しい解釈なのだろうけど、私にとってのゴジラを挙げるとすればあの荒れた戸棚だった。正確に言えば、戸棚を荒れさせた何かだった。
生活の崩壊。
それは突然かもしれないしじわじわとしたものかもしれない。外側からかもしれないし内側からかもしれない。全体かもしれないし個人かもしれない。
なによりも現実世界でうごめくゴジラには形がない。そのことに劇中でみた姿以上の恐ろしさを感じて、手をぎゅっと結んだ。

夜空

わざと自信がなさそうに振る舞ったって、感情のスイッチを切って作業をしたって、それっぽい物を作る技術が身に付いたっていずれ死ぬんだよ。いずれ死ぬのに今私はどうしようもなく生きていて、どうしようもなく生きているからまた同じことを繰り返す。ゴムみたいに伸びた毎日を首にくくって天井からたらしても足が床についちゃってね、間抜けなものですよびよーんと。仕方なく座り込んで窓の外を見る今日は土曜日。雲の隙間から少し欠けた月が見えるけど、明るすぎて電灯みたいなのでありがたみがない。おじいちゃん、人生だの人間だの語ったことのないあなたはこんな私を見たらどう思うかな。夜空を見て故人を思うなんてありきたりな思考回路だけれども神も仏も信じていない私がこの散らかった部屋でおじいちゃんを思うのにふさわしい場所はやっぱり夜空な気がした。大人が下手なことを下手なままでいるって難しい。上手になっていく自分は寂しい。だから私はおじいちゃんのことをいつまでもだだっ子のように弔わないことでバランスを保っているのかもしれなかった。

二人

クルマがざるを持ってかまえると、ハバは麺の入ったお湯をそそいだ。

湯気の立ち上る流しでクルマは数回ざるを振り、ハバがそばに置いた平たい皿に中身を出した。

今日のお昼はハバの好きな酸っぱい麺だ。

クルマは酸っぱい麺が好きでも嫌いでもなかったが、ハバがうれしそうなのでそれでいいやと思っている。クルマの好物は辛いパンだけど、ハバがそれをどう思っているかは知らない。多分好きでも嫌いでもないんだろう。

ハバの目がテーブルの上を徘徊しているのでクルマは台所の戸棚から酸っぱい粉の入った瓶を取ってきた。ハバは目を細めて口をとがらせる。これはハバの感謝を意味する。クルマは眉毛をあげて少しうなづく。これはクルマの了解を意味する。ハバが酸っぱい粉をかけると麺はピンクに染まった。フォークが皿にあたる音だけが響く部屋で、クルマは窓の外を見て次に咲く花のことを考えていた。

二人は共有する言葉を持たない。

口から発する言葉でやりとりをすることを会話と言うのなら、二人は会話をしたこともなかった。たまにかかってくる電話に出るときはクルマもハバもそれぞれの言葉を話すけど、相手がどんなことを言っているのかはわからない。

でも二人は二人でいられることがなによりも嬉しかった。

「それでいいんだ」

とクルマがつぶやくと、ハバが

「ソォーダイダ」と音だけを真似した。

クルマは笑って人差し指でハバの口の横に付いてるソースを拭いた。ハバも照れ笑いをして、そして自分とクルマの空いた皿を流しへ下げた。一人残ったリビングで指を舐めながら、クルマはふいに「あ、次は花びらが二重になったあのピンクの花かな」と思い至った。

廊下の奥からパタパタとハバのスリッパの音がしてすぐ側で止まった。見上げるとハバが目を細めながら今日の新聞を差し出している。

クルマははっとした顔になって急いでページをめくり始めた。そしてある一点をまじまじと見つめ「あっ」と声をあげた。ハバはクルマの好きなものが特に好きではないので新聞を覗きこむことはせず、クルマの様子をぼんやりと眺めていた。

全文を読み終えたらしいクルマはとびきりの笑顔になり、新聞を床にほおると壁にかかっていたウエスタンハットを被り映画のスターのようなポーズをした。

それは旅の合図だった。ハバは途端にうれしくなりその場で跳ねた。クルマもハバも旅は大好きだった。