一緒に

もう何がどうだっていいから君に会いたいな。世間は改元だなんだと騒いでいるけれど、私にとって時代は君がいた頃と君がいない今の二つしかないよ。どうだっていい、今まで考えてきたこと全部どうだっていいから、君に会いたい。君にしかできない話がある。伝えたいこともう両手からこぼれそう。聞いてね、笑ってね、ね、一緒に生きてよ。

悲しみ

あまりにも大きな悲しみを抱えていると日常で出会う小さな悲しみを軽んじてしまって、そのバチが当たったのか、そこらへんに適当に放っておいた悲しみに躓いてこけた。『よく生きる』ことは大切だし、その営みは貴い。だけど、よく生きようとしすぎると人間は死んでしまう。よってまずは生きなきゃいけない、当たり前のことである。しかしそこまで考えて気づく。一番苦しいのは『ただ生きる』ということであり、『よく生きる』という概念はその苦しさから解放されるために人間が発明した薬または毒なのだと。

現実

死んだと思った人が生きてたって物語は希望そのものだけど、一部の観客/読者にとっては絶望でしかない。否定したい訳じゃない、むしろ誰よりもそんな奇跡を望んでいるからこそ、そして現実では起こり得ないとわかっているからこそ、否定せざるを得ないのだ。

「もし魔法が使えたらどうする?」「もしタイムマシンがあったらどうする?」「もし人を生き返らせる技術が開発されたらどうする?」。そんな「もし」を単なるお題として楽しめなくなってしまって、キャッキャッと話してる人たちが羨ましい。だけど私はファンタジーでこの悲しみや後悔を誤魔化したくない。抱えながら生きていくって決めたから。奇跡なんか起こり得ない現実で歯くいしばって生きてる人たちを、救うって決めたから。

やさしさ

「うんうん」「えらいね」「それで?」って話を聞いて、相手が言って欲しそうなことを言って、弱ってるときは優しく声をかけて。そういうことを続けていたら好かれた。そして心が汚れた。常に目の前の誰かに対して「○○してあげる」姿勢になっている自分が気持ち悪かった。身体は相手に向きながら、頭の中は「こういうことができる自分」でいっぱいだった。相手の欲しいものをあげるのが優しさなんだろうか。相手が笑顔になればそれでいいんだろうか。「本音で語り合わなきゃいけない」なんて青臭いこと言うつもりはないけど、そんな付き合いしてるだけならもう人間でいなくてもいいんじゃないか。

遺されて

大事な人を亡くしてから、心の機微や細やかな所作を捉えられなくなった。怒らなくなり、こだわらなくなり、諦めるようになった。それがいいのか悪いのか、強さなのか弱さなのか、正しいのか間違いなのかはわからない。すべてかもしれない。ただなんだか私の今の心持ちは懐かしいような気がして、あ、おばあちゃんと思い至る。おばあちゃん、どれだけの人を亡くしたんだろう。なんて、勝手ですか。

その価値を知らない人からしたら「そんなこと」じゃないですか。でも人は「そんなこと」で生きようと思ったり、死のうと思ったりする。今、何十億の歴史を経て何十億の個体が息をしています。確かに人の命は取るに足らないものであり、したがってすべてのものは取るに足らない。確かに人の命はかけがえのないものであり、したがってすべてのものはかけがえがない。その二つの事実は共存する。私は熱のない人間なので、誰かの熱に触れるたびこんなことをいつも頭で考えます。

こんな酔いぐらい大人はちゃんと管理するべきであって、言い訳にしてはいけないのです。大人はいつなんどきもちゃんとせねばいかんのです。一度大人になった以上死ぬまで大人であることを踏まえれば、私は死ぬまでちゃんとしなければいけないのです。そうです。それなら一度死んでもう一度子供になりたい。いやわがままを言えば今一瞬だけ子供になってすべてを許されたい。そんなわがままを酒のせいにして実行するのはやはり大人のすることではないでしょうか。