ピアス

「私さ、永沢んちにピアス落としてない?」

次々と改築されていく講義棟に取り残されて第二講義棟は古くて狭くて寒かった。私は少し大きめの深緑のセーターの袖を指先で握りながら、授業終わりに教室を出ようとする永沢の背中に声をかけた。喉が渇いてはりついて不快。だけどなんにも考えてないような顔を保つ。

「おお長沢。ピアス?」

振り向いた永沢は少し微笑んで聞き返した。本人には微笑んでいる自覚はないのだろう、これは彼の地顔であり、鎧であり、人から好かれる理由である。

「見てないなぁ…どんなん?」

黒くて大きなリュックをしょいなおして、首元ののびたTシャツの前で腕を組む。

「紫のクロッカスがついたやつでさ」

「クロックス」

「いや、クロッカス」

「違うん」

「クロッカスは花だよ、春に咲くやつ」

「お~紫の花のピアスね、おっけ、探しとく」

「耳からサンダルさげないから」

確かに、と元から高い位置にある口角をさらに上げて永沢は笑った。じゃーよろしく、と言い残して私は反対側の出口へ向かう。耳からサンダルってもうワンテンポ早く言えばよかったな、あれじゃあ会話を少しでも長く続けたいって気持ちがばれてしまったかもしれない、いや今こうやって素っ気なく去っていることでカモフラージュされているかもしれない。少し歩を緩めて溜息をつく。別に永沢が好きなわけではない、と、思う。だけど今わたしの身体は鼓動が響いてうるさい。

 

その日、ドアを開けた永沢はなんの感情も伝わってこない、というより感情をすっかり使い果たした様子だった。顔だけに二十数年間で染み付いた笑顔があった。

「よ、来てくれたん」

「来てあげたよ」

「さんきゅ、今散らかってるけど中はいって」

「いやいいよ、これだけ渡しに来た」

私は愛想のない茶色の紙袋の中身を永沢に見せた。

「えっこれ長沢つくったん?」

「そそ、おいしくないかもだけど」

「えーー絶対おいしいって!俺、マフィンなんて3年ぶりかも、いや4年?」

「オリンピック並みだね」

「いやー、オリンピックといえば羽生くんすごかったみたいだねぇ」

永沢はラップに包まれたマフィンを手にとってしげしげと見る。フィギュアスケート好きのくせに国民の半数が見た演技をまだ見てないのか。そんなに、ショックだったのか。

「まぁ、だからさこれでも食べて」

「長沢ってやさしいよな」

「え?」

「失恋した友達にお菓子作ってきてくれるなんてなぁ。泣ける」

触れてはいけないかもと逡巡していた話題を突然ふられて固まる。永沢は気にしていないようにマフィンから目を離さない。

「別に。でも、大丈夫なの?」

「まぁなーだいじょばないな」

「そう」

この手の話には疎いので何も言葉が浮かばない。しかし永沢が高校時代も含めて6年間付き合っていた彼女と関係を終わらせたと聞いたとき、他人事ながら数秒間なにも言えなかった。本人たち含め誰もが、このまま結婚するだろうと思っていたのに。

「髪切るのもいいと思うよ、古典的だけど」

「長沢、俺いま坊主」

「そうだ、ったね」

「切る髪はないけど、そうだな、部屋の片付けとかしようかな」

「うんうん、精神衛生も保たれるし」

そう言って言葉につまってしまったので、じゃと小さく言って背を向けた。私は沈黙が苦手だ。

「え、長沢もう帰んの」

「うん、そっとしとこうと」

「そっか、ありがとな、ほんとに」

うん、と言いながらドアノブに手をかけた瞬間、「あ、終わっちゃう」と思った。そしてその体勢のまま動けなくなってドアノブと手の温度がつながっていった。

「長沢?」

「やっぱあと1分だけいようかな」

 振り返ったあとの景色はよく覚えていない。気がついたら永沢の顔が目の前にあって、温かい息が顔にかかった。永沢はいつもの笑顔じゃなくて私は今起こったことよりも永沢が笑顔を消せることに静かに驚いた。永沢は何色でもない瞳でこちらを少し見下ろした。

「ピーコックってなんだっけ」

「え、孔雀」

質問の意味にも即答した自分にも戸惑って、「あ、そだ孔雀」とあごに手を当てて元の位置に戻る永沢をぼんやりと見た。いつもの笑顔は戻っていた。