イノセント

恋愛の仕組みがもう少し単純で、より長く見つめられた者が勝利するというゲームだったら、私は三年間負け続けていて対戦相手は自覚もなく勝ち続けていた。

今私の前にいる因縁のライバル、木月の瞼はほぼ閉じかけていて、知らない人が見たら眠そうとしか思わないだろうけど私にはわかる、あれは木月が考えているときの顔。彼、木月は顎を少し前に出して気だるげにしかし実は熱心に私がさっき送った写真を凝視している。私、未子は良く言えばつぶらな、悪く言えばしじみな目を最大限見開いてそんな木月の顔を凝視している。今どき珍しい畳のワンルームは木月の部屋で、そこに体育座りで向かい合う私たちの顔の間は約1メートル、つま先はなんと2mmという史上最高の至近距離なのにこんなに見つめても絶対に木月は気づかないであろうことは三年間の訓練で不本意にも鍛えられた私の勘が保証する。そう、三年。それが最近とうとう嫌になって、木月から来るまで絶対に連絡はしないと決心したのが一週間前で、いつまで経っても更新されないトーク画面を見るのにも耐えかねて「CDのジャケ写そろそろ決めなきゃじゃない?」というギリギリ事務的な連絡を結局未子からしたのは昨日のことだった。

「ねぇ、これとかどう?」

いきなり木月がこちらにスマホを差し出してきたので咄嗟に「あー、ね」と言葉が出たけど焦点を合わせるのに数秒かかった。その写真は県内で一番大きな湖を角度を調整して海っぽく写してあり、「この県の唯一の欠点は海がないこと」と嘆く木月が去年サークルメンバーに声をかけて突発的に開催した湖畔でのBBQのときに撮ったものだった。海がある、というか海しかない土地からやってきた木月は、ハチミツをかけたきゅうりを目をつぶって食べるがごとく、ここ内陸部で疑似的な海を見つけては喜んでいる。だったらなんでここに来たの?と知り合った人に聞かれるのはもはや定番になっていて、木月の答えは第一志望の大学に落ちたからですとか、海も好きなんですけどここの山も好きでとか、なんとなくですとか毎回バラバラだった。

「あんまり?」

と首を少し傾げて木月が返事を促す。木月はアイドルのように首を傾げる絶妙な角度を心得ており、私はそれを苦い顔で見ることで早まる鼓動を隠そうとした。

「イヤなのか」

「あ、そゆんじゃないけど。ほら、人も写ってる方が賑やかじゃない?絵面的に」

「んー、人ねぇ」

もう一度視線をスマホに戻す。私はやっぱりか、と肩をすくめながら窓の外を見る。他の写真は今までのライブで撮った写真や二人で一緒にベンチに座ってる(といっても学校内だけど)ときの写真で、大きくも小さくも私たちの姿が写っていた。なんでもいいからジャケ写は私たちが写っているものにしたくて持ってきた15枚のうち13枚をそれにしたけど、木月はそんな私の魂胆を嗅ぎ取ったのか海なんだか湖なんだかわからない写真を選ぶ始末。『少年はいつまでもいつまでも片想い』なんて歌あったなと鼻歌にして歌いながらひざに頭をうずめると、木月は「じゃこれでいこう」ともう一枚の写真を見せてきた。

「あー…そうですか」

「そうですかって未子さん」

「でもそんな誤操作で撮れたやつがジャケ写でいいのかね」

「それがおもしろいよ」

私はその言葉を聞いた瞬間顔をしかめた。

木月が言うのは私がスマホをポケットの中にいれていたときに間違って撮れた写真で、フラッシュが焚かれて白く光る私の指と、指の先で弄ばれている指輪がぼんやりと写っていた。なぜか木月がそれを推していたので一応候補には入れたが、正直私にはそのよさがわからない。まぁこれで木月は私たちの写真をジャケ写にする気はないことは決定的になったので、もうなんでもいい。

「そうかもね、これにするか」

「未子、本当に?」

また同じ角度で尋ねてくる。かわいいからやめてくれ、真面目な時にだけ呼び捨てするのもやめてくれ、と慌てて顔をそらした。私はいつも木月に弱い。かくして私たちのファーストアルバム『イノセント』のジャケ写はサブカルめいた謎写真になった。

 

アルバム名を決めたのは木月だった。「だってあの一言で未子のことおもしろいなって思ったもん」と折に触れてつるつるのほっぺを光らせながら話をする。「あの一言」が発せられたのは木月と私が初めて出会ったサークルの新歓コンパで、例のごとくお酒は20歳からと書かれたポスターを完全に無視しながら先輩に合わせてビールを飲んでいたとき…ではなく、真面目な未成年だった私がソフトドリンクを飲みつづけていたときだった。他の1年生は初めて飲むビールに「にがーい」だの「やっぱあたしカルーア」だの言いながら先輩にちやほやされており(ここで1年生に媚びなければ存続が難しいほどうちのジャズサークルは当時つぶれかかっていた)、私は少し居心地の悪い思いを抱きながら適当な愛想笑いを振りまいていた。そうして全員に酔いが回ってきたころ、トイプードルみたいなパーマをかけて絶妙にダサい女子アナみたいな服を着た女の「え~農学部って自分でにわとり捌くんですか~!」という憐憫の響きを含んだ一言が嫌な感じに頭に響いた。周りにいた男の先輩が口々に「えーそっか知らないのか!」「泣かないで~」「○○ちゃんにはきついかもね」等々言い出すなかで誰かが「イノセントだねぇ」と言った瞬間、頭がかっと熱くなり、思わず女の方を振り返って言った。

 

「あんた今おいしそうにから揚げ食ってるでしょ」

「…え?」

「夏に蚊、殺したら『よしっ』って思うでしょ」

「…」

「野菜は植物だから生きてないと思ってるでしょ」

「…」

同期も先輩も黙ったままこちらを見る。ここまで来たら止まらないので身を任せる。

「別にそれはいいけどさ。全然いいけど。でもそういう時点で誰だって、イノセントなんてなりえないってことは自覚しておくべきじゃない?」

完全に場が静まり返ったあと、それまで隅っこでちびちびと酒を飲んでいた2年生の木月がこらえきれなくなったように笑い出した。私は初対面の人ばかりのこの場でそんな発言をした自分に戸惑って顔が赤くなっていくのを感じて、「すみません」と小さく謝った。先輩たちが酔っぱらっていたのも手伝って誰かが『イノセントワールド』をはずれた音程で歌いだしたので笑いながらみんなも合唱し、それでなんとか空気は持ち直した。トイプードルは会の終わりまで不服そうに目の前の食べ物を食べることに徹し、先輩に奢らせたあとはすばやく帰って行った。当然そのあと入部することはなかったので今となっては彼女の名前も顔も思い出せない。私は木月のことがなんとなく頭に残り、意を決して後日部室のドアを叩いたら、抱きつかんばかりの勢いで先輩方に歓迎された。驚きながらされるがままになっていると、奥のソファに寝っころがったまま笑顔で手を振る木月の姿が見え、それから三年間にも及ぶ長い闘いが始まったというわけである。

 

「いの~せんとわ~~」

木月は布団に寝っころがって歌いはじめ、私は耳がすこしくすぐったいような感じがした。木月の歌声を聞くといつもそうなる。そのまま歌い続けて欲しい気持ちと、あの記憶がフラッシュバックすることへの恥ずかしさが混じり苦い顔にならざるを得なかった。木月は私の表情を意にも介さず気持ちよさそうにのびをしながら歌っている。それにしても女子が部屋にふたりっきりの状況で、布団でゴロゴロしたら誘惑だとか合意だとか言われるのに、男子がそれをしても言われないのはどうなんだろう。私たちの会議という体もなしていない会議は大抵木月の家で行われるが、寒がりでぐうたらの木月はほぼ布団のなか、私は所在なさげに窓下の壁に体育座りして話し合うのがいつのまにか固定されていた。だから布団でゴロゴロする木月なんか見慣れているはずなのだが、それでも毎度小さくもやっとする。普通こういうの男子がもやっとする問題じゃないのか。いやしかし、もしかしてそんなことを思っているのは世間ではなく私なのかもしれない。そうか私は『世間に負けた、いいえ自分に負けた』のだ!今こそ自分の殻を破り、女子である私が布団に自ら横たわった男子である木月を「誘惑している」と見なし「え、だって合意でしょ?」とすかした顔をしながら襲い掛かるべきではないのか!

「お布団ってなんでこんなに気持ちいいんだろうねぇ」

木月は天使のような微笑みで掛布団を胸いっぱいに抱きしめた。

「私が…悪かったよ…」

「え、なにが?」

きょとんとした顔でまた角度をキメる木月をよそに、私は力が抜けた体で壁によりかかった。

 

 

(つづく)

(やる気があれば)