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雨。買ったばかりのスニーカーが濡れてテンション下がる。傘の柄を肩にかけてしゃがみ、爪先の泥を指ではじく。あー、まだかなバス。100m先に見える曲がり角を睨んでみても思い出したようにぽつぽつと車が現れるだけでバスらしき音さえしない。
スマホに視線を戻し、どうでもいいネットニュースを指ではじく。泥を取るときと同じ動きだと気づいて「ハッ」と乾いた音が鼻から出た。昔有名だった俳優が不倫したとかで最近のエンタメニュースは賑わっていて、一般人のTwitterが「世間の声」として掲載されていた。「悪いことをしたら償うのが筋だ」とか「他人のものに手出すんじゃない」と批判する声のなかに時折「誰にだって間違いはある」と擁護する声もあって、でも何にも心は動かなかった。ここまでたくさんの人があーだこーだ言ってても、誰も結婚制度に対して疑問を抱いていないことだけがただ不思議だった。すごいんだな結婚って、とぼんやり思いながら画面を切り替える。ライン未読59件。右へ指を動かして見たくないものを消す。「久しぶり😃✨田中です。元気かな❓すっかり秋ですね🍁風邪を引かないように気を付け…」「カフェアトランティック10月の新メニュー!クーポンはライン友達にのみ…」「うん。そう考えたほうがいいよね!話聞いてくれてありがとう😭元気でたよ!また今度…」「こんばんは」「10/20放課後練と飲みについて出席とってるのでノートにてコメントよろしくお…」。テキストで他人とやりとりをするのは苦手だ。ちまちまとした言葉と絵文字の羅列に明るさをうわのせして文章を組み立てるのがめんどくさい。いやまず気持ちを特定の誰かに伝えることがめんどくさい。そんな関わりは濃すぎて喉がつまる。そのとき脚が突然濡れてはっと顔を上げた。薄いクリーム色の軽が目の前を通りすぎていくところだった。お姉さん、徐行お願いしますよまじで。少しいらいらしてTwitterを開く。「雨で車に水かけられたうえにバス来ない😭今日は運悪いな~😭」と素早く打ち送信ボタンを押しそうになったところでとどまる。待て、今ツイートしたらライン無視してるのバレるか。息を出さずにため息をつきながら×マークを押してスマホの電源も切る。
さっきの人は急いでいたんだろう。私も急いでいるときは周りが見えなくなる。そういうことは誰にでもある、と考えていたら落ち着いてきたけど同時にどろっとした液体が胸から溢れるような感覚に襲われた。こんな言い方、お母さんと一緒じゃん。昨晩電話で言い争った母を思い出す。小さい頃から「みんな頑張ってるんだから誰も悪くないよ」と母は口癖のように言う。それが最近急に嫌になって、昨日は子供のように難癖をつけて電話を一方的に切った。後悔と情けなさをじわじわと感じるものの嫌な気持ちは消えない。まず頑張るってなんだ。私たちには頑張ると頑張らないの二つしかないのか。頑張るってそんなに偉いのか。頑張ってれば悪くないってどういうことなんだ。いや本当はわかる。私もバイトを始めて世の中の仕組みに触れて今まで他人としか思ってなかった店員にも共感するようになった。苦労する度その共感は大きくなって町のあちこちで自分の姿を重ねることも多くなった。みんなそれぞれに頑張ってるという気持ちもわかる。わかるけど。
自分が雨で冷たくなった手をきつく結んでいることに気づいた。私は多分怖いんだ。みんな頑張ってるとか誰も悪くないってぬるい笑顔浮かべてるうちに人生終わりそうで怖い。人生が画素数荒いムービーみたいに終わりそうで怖い。すべての人を肯定しているようなことを言いながら何にも怒らず微笑み続けているのは、人生に対する倦怠と諦めとしか思えなかった。
ブゥンという音ともに視界に影が差す。見ると待っていたバスが停まっていた。慌てて傘を閉じて水気を払い段差をのぼる。窓から見える景色はもやがかかったように白かった。

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