遺されて

大事な人を亡くしてから、心の機微や細やかな所作を捉えられなくなった。怒らなくなり、こだわらなくなり、諦めるようになった。それがいいのか悪いのか、強さなのか弱さなのか、正しいのか間違いなのかはわからない。すべてかもしれない。ただなんだか私の今の心持ちは懐かしいような気がして、あ、おばあちゃんと思い至る。おばあちゃん、どれだけの人を亡くしたんだろう。なんて、勝手ですか。

その価値を知らない人からしたら「そんなこと」じゃないですか。でも人は「そんなこと」で生きようと思ったり、死のうと思ったりする。今、何十億の歴史を経て何十億の個体が息をしています。確かに人の命は取るに足らないものであり、したがってすべてのものは取るに足らない。確かに人の命はかけがえのないものであり、したがってすべてのものはかけがえがない。その二つの事実は共存する。私は熱のない人間なので、誰かの熱に触れるたびこんなことをいつも頭で考えます。

仕事

埃くさい小さなオフィスで野暮ったい制服着ながらパソコンとにらめっこしてるのが私。そんでこれが私の仕事。地味ですねって?反論はいたしません。誰が見たって地味ですもの。今は沖縄の取引先へメールの返信を催促する文章をどこすかどこすか打ち込んでる。まったく比嘉の野郎、今頃泡盛で一杯やっちゃんてんじゃないの?今日中に返信来なきゃそっから作業進まねえんだよって私はちょっとイライラきてる。隣のまみちゃんは小さくアクビ。入社1年目の彼女は、特に嫌なことも楽しいこともなく、ついでに言えば若い男もいないうちの会社に飽ききってる。今も同じファイルを閉じたり消したり消したり閉じたり。彼女は大学時代、アメリカへ留学したりボランティアに励んだりラクロス部マネージャーとして男を食い漁ったり、そりゃもう意欲的で正しい大学生だったそうだけど、大手の最終面接でことごとく落ち続け、巡りめぐってうちに辿り着いたらしい。なぜそんなに詳しいかといえば、なんの不思議もない、何回も何回もため息混じりに本人から聞かされただけであって特に興味があるわけではない。「私はもっと個人が輝ける会社に行くはずだったんです。社員一人一人が仕事にやりがいと誇りを感じられるような。そして日本のこれからを作っていきたかったんです。」と薄く涙を滲ませて話す彼女の姿にさすがに少々同情はしたけれど、それ以上の感情は出てこなかった。それでも優しさをかきあつめて「そうか、転職頑張れ」と励ましたのに、恨みがましくこちらを睨み、「先輩はそのままでいいんですか」と言い放った。何を恨まれたのかはわからないが、私はこのままで別にいい。そもそも仕事にやりがいとか誇りを求めるのは、プロフェッショナル仕事の流儀の観すぎであって、あれを仕事のスタンダードだと思い込んでしまうのは完全に現実離れした話。そりゃ天職に巡り会えた人はよかったねと思うし、それで世の中に貢献できたら素晴らしいことだとも思う。だけど現実はもっと地味で普通で淡々としていることばかりだ。仕事かったりーなーと思いながらも、みんなお金を貰えるからそこそこ真面目に働いてお金を貰ってる。でもだからといって個人が埋没するわけではないし、仕事に価値がないわけでもない。私のポストはいなくなっても誰かが代わりに入れるものだ、だけど今その「誰か」は私だ。そして金を貰い、その金で食べ物を食べ、家賃を払い、たまにアイドルのDVDを買っている。仕事は大体つまらないけど、仕事帰りに飲むビールはうまいし、同僚とのたわいない会話もうれしいし、この前奮発して買ったヒロくんのチェキも見てるだけで幸せだ。ほら、仕事に照らしてもらわなくても個人なんていくらでも輝く。座ってほしいと言われた椅子に座り、やってほしいと言われた仕事をこなし、その対価として金を貰う。金がすべてではないけど、金があるって生きてけるってことだから。自分でも他人でも金があれば養える、それってすごいことだよ。

ピロリン。ね、比嘉。あんたはどう思うかな。

だから

正直言えば、身体の線の内側にある自分はなくなっても大して惜しくない。そりゃ今すぐは嫌だけど、近い将来にはきっと。じゃ何が惜しいかって、身体の線からはみ出した自分。ずっとずっとこれからも広がっていくもの。千年万年かけてその経過を見ていたいけど、残念ながら身体はそんなに持ちません。でもはみ出したものは身体がなくなっても続いていく、それが救い。だから首相はゴジラを倒す。だからあの子は子どもが欲しい。だから私は書いている。

次の日

私が死んだ次の日に駅前で自転車が盗まれた。

 

女子高生が川沿いを走っていた。

太った猫がくしゃみをした。

空き缶が車に潰された。

交番のお兄さんが暇そうだった。

サラリーマンが道路でしゃがんだ。

祖母に手を引かれた少女が空を見上げた。

 

私が死んだ次の日は何でもない日だった。

 

おいしそう

夕飯でイクラをご飯にかけた。

白いご飯の上できらきらと光るイクラを見るだけで涎が出てくる。

おいしそう。

でもこれをおいしいものとして認識している国は世界にどれぐらいあるんだろう。

オーストラリアの友人は魚卵を気味悪そうに見ていたことを思い出す。

確かに食べない人から見るとかなりきもいビジュアルだろう。

それでも私が「おいしそう」と反射的に思うのは

「おいしかった」経験があるからだ。

それならば、今「おいしくなさそう」と思うものでも

「おいしかった」経験を重ねれば、いつか「おいしそう」と思うのだろうか。

 

道を歩いていたら、強い風が吹いて砂が口の中に入ってしまった。

ぺっと唾を吐きかけて目を見開く。

 

おいしい。

 

口の中の水分を奪ってゆっくりと固まっていくもたっとした舌触り。

ほろ苦さの中に地球の甘みが感じられる大人の味。

ふと視線をあげると、そこには幼稚園児たちが集まる公園があった。

砂場にはこんもりと山になった大量の砂。

一歩踏み出しかけた足を止め、首を横にふって元の道を進む。

きっと疲れてるだけだ、砂がおいしいなんて。

 

家に帰ると母が台所で夕飯の支度をしていた。

「ただいま」

「あら、おかえり」

「今日のご飯なに?」

「毛糸の煮物に、定規のきんぴらに、椿の漬物かな」

「……どういうこと」

「隣の佐々木さんからレシピおしえてもらったのよ~」

「な、レシピって」

「毛糸って今流行ってるんだって、フリースよりも水をよく吸収するし

消化にもいい。わりと味もいけてるのよ。」

「ちょお父さん、何か言ってよ、お母さんおかしいよ」

「ん?まぁ新しいものに挑戦するのは悪くないんじゃないか」

「新しいって新しすぎるでしょ、お父さんまで何言ってるの…」

「ほら、それよりもこれ見ろ。今日の朝刊、今年最高値の雲は3000万だと」

「くもって雲…?ただの水蒸気の塊じゃない」

「お前は若いからまだ良さがわかってないなぁ~こういう雲は形も質感もいい上に、珍しい金床雲なんだと、ま、きのこ雲ってやつだな」

「きのこ、はおいしそうだけど…」

「私、一生にいっぺんでいいからそういう雲食べてみたいな~私たちみたいな一般人は下から見上げるしかないけどさ、醤油とかつけたらおいしそうっていつも思ってる」

「お姉ちゃんまで!」

「違うんだよ、ツウは雲を孤独にからめて食べるんだと」

「孤独!?概念!?概念まで出てくるの!?」

「へぇ~意外と一般的な調味料でおいしくなるんだね」

「ねぇみんなどうしちゃったのよ、元に戻ってよ、なんなのこの世界は!」

「ほらほら早く手洗ってきなさい、ごはんできたわよ」

「わーい、おいしそう~あっお母さん、この椿めっちゃしゃきしゃきしてる!」

「お、お母さんの定規きんぴらは相変わらずうまいなぁ」

「あら、本当?年明け椿は天からのお年玉って昔から言うからねぇ、

お父さんには定規、おかわりもあるから遠慮せずに食べてね

ほらあんたも冷めないうちに食べちゃいなさい」

私は小皿に行儀よく盛りつけられた毛糸と定規と椿を目の前にし、

1分ほど固まったあと覚悟を決めて、目をつむったまま口にほおりこんだ。

 

 

お、いしい。

 

 

「おかあさーん!今日の夕ご飯はゴムのラーメンがいいな~」

「いいわよ、でもラーメンだけじゃさみしくない?」

「じゃ付け合せに私が誇らしさのアヒージョ作るよ」

「またそんな高級素材使って~」

「へへ、いいじゃん。今日はお母さんの誕生日なんだから」

 

 

 

いやーでも、そんなになんでもかんでもおいしかったら大変だろうな。

四六時中おいしそうなものに囲まれたら、おいしそうって気持ちもなくなりそう。

やっぱりおいしくなさそうなものがあってこその、おいしそうなものだからねぇ。

 

などなど咀嚼しながら考えた。イクラは大層おいしかった。

 

イノセント

恋愛の仕組みがもう少し単純で、より長く見つめられた者が勝利するというゲームだったら、私は三年間負け続けていて対戦相手は自覚もなく勝ち続けていた。

今私の前にいる因縁のライバル、木月の瞼はほぼ閉じかけていて、知らない人が見たら眠そうとしか思わないだろうけど私にはわかる、あれは木月が考えているときの顔。彼、木月は顎を少し前に出して気だるげにしかし実は熱心に私がさっき送った写真を凝視している。私、未子は良く言えばつぶらな、悪く言えばしじみな目を最大限見開いてそんな木月の顔を凝視している。今どき珍しい畳のワンルームは木月の部屋で、そこに体育座りで向かい合う私たちの顔の間は約1メートル、つま先はなんと2mmという史上最高の至近距離なのにこんなに見つめても絶対に木月は気づかないであろうことは三年間の訓練で不本意にも鍛えられた私の勘が保証する。そう、三年。それが最近とうとう嫌になって、木月から来るまで絶対に連絡はしないと決心したのが一週間前で、いつまで経っても更新されないトーク画面を見るのにも耐えかねて「CDのジャケ写そろそろ決めなきゃじゃない?」というギリギリ事務的な連絡を結局未子からしたのは昨日のことだった。

「ねぇ、これとかどう?」

いきなり木月がこちらにスマホを差し出してきたので咄嗟に「あー、ね」と言葉が出たけど焦点を合わせるのに数秒かかった。その写真は県内で一番大きな湖を角度を調整して海っぽく写してあり、「この県の唯一の欠点は海がないこと」と嘆く木月が去年サークルメンバーに声をかけて突発的に開催した湖畔でのBBQのときに撮ったものだった。海がある、というか海しかない土地からやってきた木月は、ハチミツをかけたきゅうりを目をつぶって食べるがごとく、ここ内陸部で疑似的な海を見つけては喜んでいる。だったらなんでここに来たの?と知り合った人に聞かれるのはもはや定番になっていて、木月の答えは第一志望の大学に落ちたからですとか、海も好きなんですけどここの山も好きでとか、なんとなくですとか毎回バラバラだった。

「あんまり?」

と首を少し傾げて木月が返事を促す。木月はアイドルのように首を傾げる絶妙な角度を心得ており、私はそれを苦い顔で見ることで早まる鼓動を隠そうとした。

「イヤなのか」

「あ、そゆんじゃないけど。ほら、人も写ってる方が賑やかじゃない?絵面的に」

「んー、人ねぇ」

もう一度視線をスマホに戻す。私はやっぱりか、と肩をすくめながら窓の外を見る。他の写真は今までのライブで撮った写真や二人で一緒にベンチに座ってる(といっても学校内だけど)ときの写真で、大きくも小さくも私たちの姿が写っていた。なんでもいいからジャケ写は私たちが写っているものにしたくて持ってきた15枚のうち13枚をそれにしたけど、木月はそんな私の魂胆を嗅ぎ取ったのか海なんだか湖なんだかわからない写真を選ぶ始末。『少年はいつまでもいつまでも片想い』なんて歌あったなと鼻歌にして歌いながらひざに頭をうずめると、木月は「じゃこれでいこう」ともう一枚の写真を見せてきた。

「あー…そうですか」

「そうですかって未子さん」

「でもそんな誤操作で撮れたやつがジャケ写でいいのかね」

「それがおもしろいよ」

私はその言葉を聞いた瞬間顔をしかめた。

木月が言うのは私がスマホをポケットの中にいれていたときに間違って撮れた写真で、フラッシュが焚かれて白く光る私の指と、指の先で弄ばれている指輪がぼんやりと写っていた。なぜか木月がそれを推していたので一応候補には入れたが、正直私にはそのよさがわからない。まぁこれで木月は私たちの写真をジャケ写にする気はないことは決定的になったので、もうなんでもいい。

「そうかもね、これにするか」

「未子、本当に?」

また同じ角度で尋ねてくる。かわいいからやめてくれ、真面目な時にだけ呼び捨てするのもやめてくれ、と慌てて顔をそらした。私はいつも木月に弱い。かくして私たちのファーストアルバム『イノセント』のジャケ写はサブカルめいた謎写真になった。

 

アルバム名を決めたのは木月だった。「だってあの一言で未子のことおもしろいなって思ったもん」と折に触れてつるつるのほっぺを光らせながら話をする。「あの一言」が発せられたのは木月と私が初めて出会ったサークルの新歓コンパで、例のごとくお酒は20歳からと書かれたポスターを完全に無視しながら先輩に合わせてビールを飲んでいたとき…ではなく、真面目な未成年だった私がソフトドリンクを飲みつづけていたときだった。他の1年生は初めて飲むビールに「にがーい」だの「やっぱあたしカルーア」だの言いながら先輩にちやほやされており(ここで1年生に媚びなければ存続が難しいほどうちのジャズサークルは当時つぶれかかっていた)、私は少し居心地の悪い思いを抱きながら適当な愛想笑いを振りまいていた。そうして全員に酔いが回ってきたころ、トイプードルみたいなパーマをかけて絶妙にダサい女子アナみたいな服を着た女の「え~農学部って自分でにわとり捌くんですか~!」という憐憫の響きを含んだ一言が嫌な感じに頭に響いた。周りにいた男の先輩が口々に「えーそっか知らないのか!」「泣かないで~」「○○ちゃんにはきついかもね」等々言い出すなかで誰かが「イノセントだねぇ」と言った瞬間、頭がかっと熱くなり、思わず女の方を振り返って言った。

 

「あんた今おいしそうにから揚げ食ってるでしょ」

「…え?」

「夏に蚊、殺したら『よしっ』って思うでしょ」

「…」

「野菜は植物だから生きてないと思ってるでしょ」

「…」

同期も先輩も黙ったままこちらを見る。ここまで来たら止まらないので身を任せる。

「別にそれはいいけどさ。全然いいけど。でもそういう時点で誰だって、イノセントなんてなりえないってことは自覚しておくべきじゃない?」

完全に場が静まり返ったあと、それまで隅っこでちびちびと酒を飲んでいた2年生の木月がこらえきれなくなったように笑い出した。私は初対面の人ばかりのこの場でそんな発言をした自分に戸惑って顔が赤くなっていくのを感じて、「すみません」と小さく謝った。先輩たちが酔っぱらっていたのも手伝って誰かが『イノセントワールド』をはずれた音程で歌いだしたので笑いながらみんなも合唱し、それでなんとか空気は持ち直した。トイプードルは会の終わりまで不服そうに目の前の食べ物を食べることに徹し、先輩に奢らせたあとはすばやく帰って行った。当然そのあと入部することはなかったので今となっては彼女の名前も顔も思い出せない。私は木月のことがなんとなく頭に残り、意を決して後日部室のドアを叩いたら、抱きつかんばかりの勢いで先輩方に歓迎された。驚きながらされるがままになっていると、奥のソファに寝っころがったまま笑顔で手を振る木月の姿が見え、それから三年間にも及ぶ長い闘いが始まったというわけである。

 

「いの~せんとわ~~」

木月は布団に寝っころがって歌いはじめ、私は耳がすこしくすぐったいような感じがした。木月の歌声を聞くといつもそうなる。そのまま歌い続けて欲しい気持ちと、あの記憶がフラッシュバックすることへの恥ずかしさが混じり苦い顔にならざるを得なかった。木月は私の表情を意にも介さず気持ちよさそうにのびをしながら歌っている。それにしても女子が部屋にふたりっきりの状況で、布団でゴロゴロしたら誘惑だとか合意だとか言われるのに、男子がそれをしても言われないのはどうなんだろう。私たちの会議という体もなしていない会議は大抵木月の家で行われるが、寒がりでぐうたらの木月はほぼ布団のなか、私は所在なさげに窓下の壁に体育座りして話し合うのがいつのまにか固定されていた。だから布団でゴロゴロする木月なんか見慣れているはずなのだが、それでも毎度小さくもやっとする。普通こういうの男子がもやっとする問題じゃないのか。いやしかし、もしかしてそんなことを思っているのは世間ではなく私なのかもしれない。そうか私は『世間に負けた、いいえ自分に負けた』のだ!今こそ自分の殻を破り、女子である私が布団に自ら横たわった男子である木月を「誘惑している」と見なし「え、だって合意でしょ?」とすかした顔をしながら襲い掛かるべきではないのか!

「お布団ってなんでこんなに気持ちいいんだろうねぇ」

木月は天使のような微笑みで掛布団を胸いっぱいに抱きしめた。

「私が…悪かったよ…」

「え、なにが?」

きょとんとした顔でまた角度をキメる木月をよそに、私は力が抜けた体で壁によりかかった。

 

 

(つづく)

(やる気があれば)