パーソ

パーソナライゼーションについて定期的に考えている。

パーソナライゼーション:何かを個々人に合わせてカスタマイズすること

カタカナが苦手なので日本語に置き換えようと思ったが、当てはまりのいい言葉がない。パーソナライゼーション、パーソナライズ、どちらにしても長いので今日は「パーソ」でいく。

バナー広告、検索結果などがパーソされていることは知っていたが近頃のニュースによると今は薬や服までもパーソの時代らしい(今自分で書いてて『パーソって何だよ』って思った)。こちらが無理に合うものを探さなくても、自分に合うものがあちらから寄ってくる仕組み。そりゃ売れそうだ。現に売れている。かくいう私もamazonの関連商品一覧で次々と獲物を追っていくうちにタブの収集がつかなくなる人間だ。

しかしなんか時々ひっかかる。

一口にパーソと言われているがそれには、「外からのパーソ」と「内からのパーソ」の2種類があるのではないか。例えるなら、服屋で友達に選んでもらった服が外からのパーソで自分で選んだ服が内からのパーソ。要は「客観的に見たあなた」に合わせたものと「主観的に見たあなた」に合わせたもののことを言いたい。そして私は内からのパーソばかりを続けることに時々違和感を抱くのである。「えー普段なら着ないけどなぁ」っていう服が案外似合って「あれ?いけるな」と思う、そういう潜在的可能性を自覚する機会は外からのパーソあってこそだ。でも今のパーソを見てると外からのパーソってあまりないなと思う。もちろんすべてがパキッと2種類に分かれているわけではなく、そのほとんどは個々人の興味関心の周辺からじわじわと世界を拡げているものだとは思う。でもひとっとびに未知の世界を提供する外からのパーソももう少しあっていいんじゃないか。つまりは今現在の興味関心と繋がっているコンテンツだけではなく、遠く離れた所にも点を打つようなコンテンツを提供していくべきなんじゃないか。

もちろん馴染みのないコンテンツをただつきつけるだけじゃだめで、受け取ってもらいやすい仕組みが必要。だから私はコンテンツよりも仕組みにこそパーソが必要なのではないかと思う。友達に選んでもらった「えー普段なら着ないけどなぁ」って服を試着しようという気にさせるのは、友達の信頼性や親密度だろう。企業が信頼できる「友達」を個々人に合わせて作り出せれば、提供するコンテンツまでパーソしなくてもいいんじゃないだろうか。

新しい世界は「類似」「共感」「親しみやすさ」の橋を渡ることでしか行けないものじゃない。今の自分の世界とは全く違うものこそ人々にもたらしてくれる何かがあるはずだ。だから外からのパーソをしてくれる仕組みをもっと重視してほしいと私は思う。

 

 

…ってとこまで書いてわかんなくなってきた。おーわり。

パーソの事例は多すぎてどれがどうって言えるほど詳しく研究してないし、今回念頭に置いているパーソはコンテンツ提供系の限られたパーソだけど、まぁとりあえずの今の気持ちは以上の通りです。本当は仕組みの案もあるのだけれど内定先の会社で実現していきたいことなので今はまだ秘密。ボツくらったら公開します。

まぁとにかく私は自分に似たようなものだけに囲まれて生きていくのが怖くて、それを助長させているように見える今の世の中に警戒心を抱いてしまう。一生懸命言葉尽くしてみたけど論理破綻してると思うので今日はこの気持ちだけ伝えられればいいや。はー難しいこと考えて疲れた~(パーソパーソ言ってただけだけど)。

今日は提供者側の話だったけど、今度は消費者側の話もしたいなと思う。だぶだぶの駄文をここまで読んでくださった方ありがとうございました(とか言ってみるけどそもそもこのブログ読んでる人っているのだろうか)。