英語

言語って誰のもんなんだろうか。

 

日本人にとって、英語の存在は大きいと思う。まるで「この世には二種類の人間がいる。ひとつは英語ができるやつと英語ができないやつだ」とでも言うように、人々を二極化させている気がする。特にできないと自覚している人は英語の話になると、「英語はだめなんですよ」と白旗を振るように苦笑することが多い。そういう私も数年前まで、留学経験や試験のスコアという「通行証」を持っていなければ「こっち側」から「あっち側」へは行けない、という意識があった。実際その意識が変わったのは海外経験を経たからなので、今日の投稿は通行証の存在を証明しているような話になってしまうかもしれないが、そうではない!という私の考えをひとまず伝えたいと思う。

私は昔から抱いていた「海外に住みたい」という願いを、オーストラリアで叶えた。約1年間、語学学校へ行ったり働いたりボランティアをしたり、学生時代にはできなかった経験をたくさん積んだ。そのなかのひとつに、日本語学校のアシスタントがある。そこでは、10代から60代までの様々な年齢の人たちが日本語を学んでいた。そのほとんどが仕事帰りや学校終わりに完全なる趣味でやっている人たちだった。外国でこれほど多くの人々が日本語を熱心に学んでいるという事実だけでも興味深かったが、何よりも胸を打たれたのは彼らの楽しそうな顔だった。「毎日一文を覚えようと思ってるんです」と胸ポケットから手書きのメモを取り出すおじいさん、週末見た映画の内容をたどたどしい言葉で伝えるサラリーマン、お気に入りの漫画のセリフについて授業終わりに質問する高校生。新しい言葉を覚える、使う、そして通じるという単純な喜びにほくほくしている彼らの姿を見て、日本語は日本人だけのものじゃない、こうやって興味を持って楽しんで学んでいる彼らのものでもあると心底思った。

帰国してから、「通行証」を手にした私は望み通り周囲から「あっち側」扱いをされるようになったが、自分にはもうそういう区分け自体意味がないような気がした。能力だけの話をすれば、日常会話はスムーズにできるようになったし海外の友達は増えたが、本当に習得したと言うには程遠いレベルだった。それでも、渡航前にあった「英語は私のものではない」という考えはなくなった。それは能力というより意識の問題だったし、英語を話せればと思う誰もにあてはまることだと思う。極端な話、例えば「私はサッカーをしたいです」とか「あなたは何歳ですか」という文章が話せれば、それで十分英語はあなたのものじゃないだろうか。だってもし英語話者の男の子にそうやって話しかければ一緒にサッカーをすることもできるし、何歳か尋ねることもできる。英語話者に自分の意思を英語で伝えられたって時点で自分を「こっち側」とか「あっち側」なんて分ける必要はない。

いやもっと深い話をしたい、そんなの会話じゃない!という人がいるなら、勉強と実践を積み重ねてどんどん上手くなればいいと思う。でももし「そんな簡単な文章話せたくらいで…」と思って英語に距離を感じている人がいるなら、そんなことない!と私は言いたい。

 

言語はできる人だけのもんじゃない。いろんな角度からいろんな向き合い方で日本語を話していた生徒たちがいたように、英語だって他の言語だって自分の好きなように関わることができるしそこに境界線はない。話してみたいという気持ちは何かで押し潰すことなく健やかに育ててほしい。そうしていつか、新しい誰かと気持ちを伝え合える日が来たら、それはすごく素敵なことだと思うのだ。