気づき

今日、気づいたことがある。

まずその話の前に、私は服がダサいことを伝えなければいけない。

人に堂々と言うことでもないが私の気づきをわかってもらうには必要なステップである。

物心ついたときからダサかった。小学生の頃は、良品安価(これわかる人いるかな…)のページを見て「長く着れそうなやつ」という基準で選んでいたことを覚えている。高価なものが苦手だったうえに特にこだわりがなかった。このダサさは家計への配慮が生んだもんなんだなと思っていた。

しかし先日なにげなく幼少期のアルバムを見ていたら、2歳で蛍光ピンクのズボンに鮮やかな緑のトレーナーを着ている自分を見つけた。なんと、物心がつく前からダサかった。

姉にそのことを伝えると、「あのね、うちら出自がダサいのよ。」とため息交じりに言った。

出自が…ダサい…

思い返せば母はチューリップのイラストの上に「TURIP」と大きくプリントされた靴下を愛用していたし、父は不可解な色の長袖ポロシャツをハーフパンツにイン(もちろん今流行りの前だけインではない、360度インだ)し、不可解な長さの靴下をはくのが定番のスタイルだった。

これが…出自か…

逆らえない大きな運命を感じ、そのときから己のダサさに反抗することをあきらめた。

 

話は変わって、私は言葉が気になる。

もし彼氏が浮気性でも、気が使えなくても、顔がかっこよくなくてもアウトではない。しかし句読点の位置が気持ち悪いとちょっと考えてしまう。いや、いいんだけど。いいんだけど、

「おはよう。今日は、いい天気だね。今週末の、デート、家で映画もいいけど、予定変更でやまのぼりとか、どうかな?紅葉とかまだ速いと、思ってたけど、ゆーて以外と見頃かもよ。後、昨日パーカー忘れてったよ^^」

とか送られてきたら一旦そっと携帯を置いてしまう。あと誤字。「速い」て「以外」て。あと変換。「やまのぼり」て「後」て。ついでにつっかかると「ゆーて」と「^^」もなに!?

と言うほど私も言葉が全然うまくないし、さすがにうざいので特に誰に言うこともないのだが、気になる。少なくともこの人は言葉に重きを置いてないのだな、と思うと埋められない溝を感じる。てか字を間違わないとかはもう身だしなみレベルのもんじゃないかねぇと考えていた、というところで本題に戻る。

このとき私は気づいた。

もしかして服と言葉って似たようなもんなんじゃ…?

どちらも個人の趣味嗜好に関わらず、使わなければ生活できない。だから特にこだわりもなく道具として捉えている人もいれば、自分のアイデンティティの一部として捉えている人もいる。

そう考えると私のダサいファッションは言葉に置き換えると上記のメールと大差ないのではないか。

うわぁあああああぁあ…

同時にこれまでの数々のダサファッションがよみがえってくる。いやでも私だって身だしなみくらいは!と思い直すも、クローゼットから顔をのぞかせる毛玉だらけのニットと目が合う。

多分、句読点はベルトやアクセサリー。誤字と誤変換は毛玉やしわ。浮ついた言葉はペラペラの安い服。

今まで私の服に小言を言う人の気持ちがやっとわかった。こだわりのある人から見たらものすごく気になるのだ。「ファッションはコミュニケーション」と誰かが言っていたが、今深く納得する。本当に服は言葉、言葉は服だった。

そう考え始めると、次々と類似点が見つかっておもしろい。服と同様、私の語彙は親の影響を大きく受けている。特に高校生くらいまでは親以上の語彙は広がらなかったし、口癖もそのままうつっていた。言葉への姿勢も父親と似ているなと思う(まぁ私がただ感化されやすいというだけかもしれないが)。

また以前、服好きな友達がさらりと言った「服って他人と自分の境目じゃん」という言葉を思い出す。言葉もまさに境目のようだ。重ねれば重ねるほど、相手と自分の間に薄い膜みたいなものを感じる。壁というほどではない薄さ、触れているようで触れていない感触。だから言葉を失ったまま好きな人の肌に触れるとき、人は幸せを感じるのだろうか、なんて思ってみたりもする。私はその幸福感がよくわからないので、またひとつ新しい気持ちに近づけたようでなんだかうれしい。

 

 

というわけで服と言葉。まだまだ思考を深められそうな今日の気づきでした。

えっと、でもまずは毛玉取ろうかな。