ツイッター

ツイッターの心理学という本を読んでいたらおもしろいことが紹介されていました。

 

ツイッターの心理学:情報環境と利用者行動

ツイッターの心理学:情報環境と利用者行動

 

 

人類学者木村大治さんがツイッターとの類似点を示したのが、ザイールの農耕民ボンガンドによってなされる発話形式、「ボナンゴ」。

広い庭に立って話し手が大声で不特定多数の人に話しかけるものの、聞き手はさして興味を示さない。話している内容には「腹が減った」「最近暑い」など、さして重要ではない愚痴も含まれるそうで。

つまりボナンゴとは,語り手の方は「勝手に」自分の言いたいことを言い散らし,そして聞き手の方はそれを聞かないことにして受け流すことによって 成り立っているわけである。 語る方は聞き手がそれを聞き流してくれるだろうことを承知で,いわば無責任に発話を「投げ放す」のだが,聞き手の方もそれを承知で,真剣にはその発話に関与しないのである。

https://jambo.africa.kyoto-u.ac.jp/lecture/kimura2/3.htm

 

 というわけで、木村さんはこの発話に「投擲的発話」という言葉をあてたそうです。

おもしろいなぁ。

「反応を強要するほどじゃないけど、気にしてほしい」というのは現代人らしい発想かと思っていましたが、この事実をふまえるとそれは人間に本来備わっている欲で、ツイッターは見事にその欲を満たしているのかもしれません。

最近はお気に入りやリツイート稼ぎの風潮が高まってきましたが、この「気にしてほしい」「気にしたい」って気持ちがツイッターの原点かなと私は思います。

「おはよう」ってつぶやいてたら「あれ、今日は早いな」なんて思ったり、「風邪ひいた」ってつぶやいてたら「大丈夫かな」なんて思ったり。他人の生活の断片と自分の生活の断片を折り重ねていくのは、思考の中の町を築いているようでもあります。

もちろん今のツイッターでは情報収集や自己実現の場として利用している人も多いでしょう。そうした面での発展を望む声もありますし私もその動向を興味深く見守りたいものですが、一方で、たわいないつぶやきが共有される場としてのツイッターも残っていってほしいと思います。

誰かに連絡するほどでもない、ノートに書き留めるほどでもない、明日になったら忘れてしまいそうな気持ちを残しておける場、ましてや他人と共有できる場というのはそうそうないんじゃないでしょうか。

「明日死ぬかのように生きろ」というのはガンジーの言葉ですが、実際には明日死ぬとしたらやらないことばかりで埋まる日々なわけで、しかしそんな日々から生まれるものこそ私は好きだなと思うんです。たわいないからこその価値を慈しんでいたいんです。

 

ツイッターを知ってから、言葉のキャッチボールだけがつながりではないと気づきました。冒頭の木村さんは「投げ放す」と表現しましたが、ボールを投げているのをみんなが知っていてくれること(そしてたまに何かにコツンと当たること)も十分に心を満たしてくれることなのかもしれません。そしてそういうゆるやかなつながり方の発展は、生き方の可能性だなと思います。

 

 

 

 

 (追記)とか言いながら私は謎の乗っ取り被害にあい、ツイッターをやめたところでした。はやく作り直そうと思いつつ、めんどくさがってやってません。この記事書いたらまたやりたくなってきたな。折を見て。