針・羽・秘密

ねむい。

さっきから世界が上下して何度も机に頭をぶつけている。

いけない、隣の席は愛しの雪野さんだからな、よだれとか垂らせない。

雪野さんは今日も一つ結び。髪の生え際の産毛がよく見えて最高だ。

一週間前に席替えしてから雪野さんが話しかけてくれたのは一度きり。

「はみ出してるよ」

ハミダシテルヨ。一瞬何のことだかわからなかったが、

雪野さんが無表情で指さす先は俺の机の前脚だったので、

他の机と並ぶ位置がずれてるということだと理解した。

俺は「おう」とか「うお」とか喉から出た声を返し

急いで机を正しい位置に動かした。

顔をあげたときには雪野さんは自分の席に座って本を読んでいた。

ハミダシテルヨ、はみだしてるよ、はみ出してるよ。

雪野さんの言葉にはいつも胸がどきどきする。

 

アドレナリンが出てきたのか目はさっきよりも冴えて

黒板の文字を読めるくらいには意識がはっきりしてきた。

先生は楕円のなりそこないみたいな図を熱心に書いていて

甲高い声で「ここ、ものすごぉーく大事です」と言った。

俺はぼんやりと、この前の修学旅行で行った

新宿のビルみてえな形だなと考えていた。

今の時刻は11時20分。

うっそだろまだ5分しか経ってないのか。

昼休みまであと40分。

俺たちは若いんだからさ、「無限の可能性」なんだからさ、

こんなクソみたいな数学じゃなくて

もっと人生の役に立つことをやらせてくれませんかね。

そう思ったけど、勉強以外に人生の役に立つことってなんだと聞かれたら

よくわかんなかった。

 

しかたないので時計の針に念力を送る。

俺のエンジェル、羽の生えた小さな雪野さんがえいっえいっと針を

パンチしたり踏んだりして時間を早めるところを想像する。

か、かわいい。

現実の雪野さんは絶対にそんなかわいこぶった声を出しはしないけど

俺はぶりっこな雪野さんもありなんじゃないかなと思うんだ。うん。

ねえ雪野さん、と横目で顔を伺おうとすると

「こんにちは」

とフェアリー雪野さんが顔の前に飛んでいた。

ひっ…と声にならない声をあげるとフェアリー雪野さんはくすっと笑い

「またはみ出してるよ」

と言う。俺は身を乗り出して机の前脚を確認したが別にずれていない。

「違う違う、シャツの裾」

またおかしそうにくすくす笑う。

ああ雪野さんって笑うとこんな顔なんだ。いつも無表情だからわかんなかった。

にやけながらシャツの裾をズボンにしまう。

「ゆき、のさん、でいいのかな?」

「そう、ユキノサンです。でも下の名前で呼んでもいいよ」

えええええええええええええええええええ

絶叫したい気持ちを抑えて俺はクールに言った。

「ああ確か、きく、だよね?」

確かも何もない。名簿票が貼られていたら自分の名前より先に探す文字列だ。

雪野紀久。

初めの授業だとのりひさって名前の男だと思われるから嫌なんだよね、と

以前、数少ない友達に話しているのを盗み聞きした。

それ以来、もし俺がサラッときくって呼んでみたら

「この人…わたしのこと知っていてくれてる…キュン」みたいな展開に…

なるかなー!!いやそんな勇気は!!!と部屋の中で歩き回りながら考えていた。

そんな俺が!

雪野さん本人から下の名前で呼ぶ権利をじきじきに頂くとは!!

…いやちょっと待て、本人?

俺は少し冷静になった。

「ええと、紀久…さん。君は誰なのかな?」

「私は紀久だよ。今あなたも言ったじゃない」

「いやごめん、聞き方が悪かった。俺が思うに君は少し、その、

いつも見ている紀久さんよりサイズが小さめというか、

ていうか羽が生えてるっていうか」

「そうね。紀久は紀久でも私は紀久の意識なの」

「意識?」

「物体としての紀久はあなたの隣に座っているでしょ、私はその意識」

ええと、つまり……よくわからない。

「まぁいいの。別にわかってもらわなくても」

紀久さんはつまらなそうに俺の机の端にちょこんと座ってそっぽを向く。

ああ、さっきまで笑ってくれていたのに。

何か気を引けることを言えないか、俺の全神経よ、結集しろ。

「絵が上手だよね、紀久さん」

「別に上手くない」

くっ…だめか。折れそうになる心をなんとか支えながら俺は続けた。

「前に一度、紀久さんと美術室で会話したの覚えてる?

俺、あの日忘れ物しちゃって放課後取りに行ったんだよ。

美術部だよね、紀久さん。一人で大きなキャンバスに一心に何かを描いてて

圧倒されてしばらく声かけられなかった。

本当はこっそり近づいたつもりだったんだよ、

でも結局邪魔しちゃったみたいで、ごめん。

俺、美術とかよくわかんねえけど紀久さんの絵、すごくきれいだと思ってさ。

緊張して、あの時わけわかんないことたくさんしゃべって、えっと、ごめん」

何を伝えたかったのか忘れてしまった。

謝って相手に媚びようだなんて、姑息な大人のやることだぞ、俺!

小さい紀久さんは聞いているのかどうかわからない様子で

足をぶらぶらさせながらどこか遠くを見ていた。

あの日、俺は雪野さんを好きになった。

雪野さんの絵はたぶん抽象画と呼ばれるもので、

くすんだ淡い青で描かれた円がいくつもいくつも重なる背景に、

女とも男ともとれない中性的な人影が一筋、青い涙を流していた。

その絵の意味するところが全然わからなくて、でもどことなく切なげなその絵に

雪野さんの秘密を見てしまったような気になった。

黙ってこちらを見る雪野さんの視線に何か話さなきゃと焦って

俺は大好きなJUDY AND MARYの話を一方的に始めた。

「BLUE TEARSって曲があってね、歌詞の一節に『青い涙が胸につたり、うつろな瞳は崩されて』ってあるんだけど、雪野さんの絵を見てそれを思い出したよ」

雪野さんは自分の絵に視線を移し、「私もその曲知ってる」とだけ言った。

「え、うそ、まずジュディマリ知ってるの?俺らの世代で知ってるやつなかなかいなくてさ、俺YUKIになってからも好――」

「嘘の涙は青いから、BLUE TEARS、らしいね」

「え」

そういう意味だったのか。

よく知らないまま語っていた自分が恥ずかしくなった。

そして雪野さんの絵に対してマイナスな発言をしてしまったようで

この上なく焦った。手に汗をかきすぎてかゆくなった。

途端に気まずくなって「じゃ」と言ってそそくさと帰ったのだけど

胸の鼓動はおさまらず、一晩寝て起きたらすっかり

雪野さんのことが頭から離れなくなっていた。

しかしよく考えると双方にとっていい思い出ではない話をなぜ

このタイミングでしてしまったのか。俺はあほか。

でも小さい紀久さんは羽をいじりながら

(いじるたびに鱗粉みたいな粉がきらきらと空中に舞った)

「覚えてるよ、それ」と少し微笑んだ。よかった、機嫌を直したようだ。

安心して俺は続ける。

「あのあと家に帰ってしばらく考えてたんだ」

「そうなの」

「あえて涙に青を使ったの?」

紀久さんはそれには答えず微笑んだままで机の端を歩き始めた。

ゆっくり、ゆっくり、10歩目を踏み出したところでようやく

「絵は、嘘かな?」

とだけ言った。

 

 

 

ドンッ

世界が暴力的な音で揺らぎ俺は反射で起き上がった。

ん?起き上がった?

見ると目の前にはさっきまで楕円を描いていた先生が立ち

「この時期に居眠りなんてものすごぉーくいただけないことですよ林くん」

とお得意の甲高い声で言った。

寝ていたのか、俺。

ぼんやりした頭のまま消え入りそうな声で「すみません」とだけ言い

恥ずかしさで頭をふせた。

先生はカッカッとヒールを響かせながら教壇に戻り、

「みなさん林くんが午後は居眠りしないよう見張っといてあげてくださいね」

とキンキン話し、みんながくすくす笑う中で4時間目は終了した。

 

やっぱりあれは全部夢だったのか、と少々残念に思いながら

隣をそっと見ると、雪野さんも焦点のはっきりしない目でぼーっと頬杖をついていた。

もしかして雪野さんも寝ていたんじゃないか。

自分だけ先生にお咎めを受けた不運さにがっくりしたものの

同じ時間に寝ていたというのはなんだかうれしい。

俺の視線に気づいたのか雪野さんはこちらを見て

「へへ」と恥ずかしそうに小さく笑った。

か、かわいい。

この笑顔は夢じゃないよな、と古典的にほっぺをつねる。夢じゃない。

もう今日はこれだけで十分だ、と自分に言い聞かせるように頷いていたら

雪野さんは人差し指をそっと口元に当て

「秘密ね」

とささやいた。

 

雪野さんの言葉にはいつも、胸がどきどきする。

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーー

ひさしぶりの三題噺でした。

大変やりやすいお題だったな。