紀久

1年ぶりに会った妹の装いに私は言葉を失った。

オフショルダーのトップスにレースの膝丈スカート、手にはクラッチバッグ

「きくちゃん…それなに…」

やっとのことで絞り出した声に紀久は

「なにってなに」

とめんどくさそうな顔で返した。

「いつからそんな…すぐ破けそうな服を着るようになったのよ」

「はぁ?これが流行ってんの今。芋臭いお姉ちゃんは知らないだろうけど」

「流行りものなんて着たことなかったじゃない。その鞄だって、荷物になるだけでしょう、紐はついてないの紐は」

「うっるさいな、大学生はみんな持ってるよこんなん」

「そんな…本当のきくちゃんはどこに行ったの」

「本当もなにもこれが私だよ!もう行くよ!」

家族にだけ短気な性分は相変わらずだけど、大きな声を出す元気はあることに少し安心した。

ずかずかと歩く紀久のあとをついて何度か歩いた道を進む。

口調は荒いけどこうやって駅まで迎えに来てくれたんだからやさしい妹だ。

もっとも私が紀久のもとに来たのは単なる旅行ではなく、母から頼まれた偵察のためだが。

紀久はおととい、誰にも相談することなく退学届けを出した。

 

 

アパートに着いたころには紀久の機嫌も直り、「ん、適当に座って」と温かいそば茶を淹れてくれた。

ありがとう~と言いながらそれとなく部屋を見渡す。紀久が描いたのであろう作品が所々に大事そうに包まれて置かれていて実際の部屋の広さよりは狭く感じる。それでもやっぱり田舎だと一人暮らしの部屋でも広いのがうらやましい。東京の狭くて散らかった我が部屋を思い出す。

紀久は大学進学のために実家を出たものの、上京はせず、故郷と変わらないくらい田舎の美大に入った。大学から上京しそのまま社会人になった私は、年1回紀久の所に遊びに行くたびに自然に囲まれる生活を羨んでいた。以前、「今って地方へ移住する人も多いって聞くしね、うちの会社もリモートワークとかできたらなぁ」と言ったら紀久は…紀久はなんて言ったっけ。確か唇を噛んで黙っていた。なんで黙っていたのか、そのときは何も疑問に思わなかったけれど、あのときから紀久のなかで何かがからまっていたのかもしれない。紀久は悲しいときに唇を噛む癖がある。

 

「きくちゃん、最近の調子はど―」

「お母さんに言われて来たんでしょ」

隣でそば茶を啜っていた紀久は私の取り繕った会話に付き合う気はないといった調子で言った。私はぎくっとしながら小さくうん、と答えた。紀久は机にひじをつき、ぱさついた毛先をいじり何も言わない。しばらく沈黙が続いたあと

「ぜんぶ、だるい」

と投げやりにつぶやいた。

「だるいって、学校が?」

「ぜんぶ。ずっと横になって暮らしたい」

「うーん、でもそんなんじゃ人生おもしろくないよ?」

「だからそれが」

マグカップがテーブルにドンと置かれ、激しく波打ったお茶はこぼれた。

「だからそれがほんとにだるいんだって」

紀久の顔はかっと赤くなった。

「先生もお母さんもお姉ちゃんも、おもしろいとか個性とか、ほんっとだるい。みんな違ってみんないいって目をきらきらさせて言われても困るの。多様性多様性って叫ぶのは個性を持っている人だけ。お姉ちゃん、特にやりたいことがない人の気持ちとか考えたことある?」

「特にやりたいこと…ってきくちゃんはあるじゃない、絵。だから美術の学校に行ったんでしょ?」

「それを無くしたから退学したの」

紀久は吐き捨てるように言って唇を強く噛んだ。

「平穏に暮らしたいの。おもしろいとかいいから。すぐやめれる仕事就いて男見つけて30までに結婚して子供産んで普通に生きる、それでいい。それがそんなに悪いことなの?」

「そんな、悪くはないよ。でも今の時代、女性だって男性と平等に働いて自立できるように社会は動いていってるしさ、結婚なんて焦る必要ないんじゃない。世間の声に囚われなくていいんだよ。きくちゃんのやりたいことをやっていてほしいなというのが私の願いだけど…」

「じゃあ私のやりたいことはすぐやめれる仕事就いて男見つけて30までに結婚して子供産んで普通に生きることです。以上」

「そ、っか…」

こりゃ母になんて言うべきだろう。昔から紀久は怒りっぽかったけど、私と母に感化されやすくなんでも真似したがる子だった。今までこんな意見の食い違いで言い争ったことはなかった。

「お母さんになんて言うか考えてるんでしょ」

「な、なぜわかった…」

「お姉ちゃんすぐに顔に出る」

私はしばらく考えて紀久の機嫌をこれ以上損ねないよう慎重に言葉を選びながら言った。

「おばあちゃんがさ、厳しい人だったじゃん。だからお母さんは結婚も時代に似合わずお見合いだったし、仕事も公務員しか認めないって言われてたらしいんだよね。それで結局結婚は失敗しちゃったし、仕事ももっとやりたいことがあったのにって昔酔ったときに言ってた。あ、きくちゃんは小さかったから知らないと思う。だからお母さんは自分が持てなかった選択肢をきくちゃんや私に与えたいんだと思うよ。その気持ちはわかる、かな」

「…わかるよ」

「そっか。高卒って働ける場所も限られてくるし、それってこの先の人生の選択肢を狭めることにも繋がると思うんだよね。だから退学は今からでも取り下げにしたほうが―」

「自分が持てなかった選択肢を与えることが、その子の選択肢を広げることになるのかな」

「え?」

「お姉ちゃんは東京でバリバリ働いててさ、すごいよね。しかも広告代理店。お母さんも喜んでるよ、お姉ちゃんはクリエイティブな仕事で日本の未来を作ってる、自己実現がちゃんとできてていいことだ、これぞ生きるってことだって。私もそう思うよ。でも私は違うの。個性個性って繰り返すお母さんとそれにちゃんと応えてるお姉ちゃんに挟まれて、やりたいことがないなんて言えなかった」

紀久は視線を外し、ばつの悪い顔でテーブルの上にこぼれたお茶をテッシュで拭いた。

いつからこんな遠いところに紀久は立っていたのだろう。私と母の後ろを付いてまわっていた紀久。進路希望調査の紙を持ち帰ってきた日、「音楽がやりたい」と言った紀久。ずっと一緒だと思っていた。いや、「ずっと一緒」ってどういう意味だ。私は一緒の考えを持っていることと一緒にいることをイコールにしていないか。

「紀久」

紀久は顔をあげずにもうきれいに拭き終わったテーブルを拭き続ける。

「私は自分の発言を撤回するつもりはないし、正直紀久の言っていることに納得はしてない。でも紀久が今日言ってくれたこと、聞けてうれしかった。もっと思ってること、聞きたいなって思う」

「それがだるい」

「うん…でもやっぱり私からはそういうことしか言えない」

紀久はテーブルを拭いていた手をやっと止め、台所へ消えた。こんなに話してもお互いに一歩も歩み寄っている気はしない。でも、それでいいような気がした。ゴールのない道でゴールを探していたことが間違いだった。

ふと、何分たっても紀久が戻ってこないことに気づき、まさか逃亡と慌てて台所のドアを開くと紀久は二杯目のそば茶を「ん」と差し出した。